4/4晩年へのガウディ

ラ・ベドレラからのガウディの退陣は、宗教への更なる接近を誘引するが、果たしてそれが建築家としての社会的退陣に、あるいは名声の喪失に重なっていくものか確かではない。というのもこの頃に二、三の興味ある出来事が見られるからである。
まずそれは1910年の春、ガウディの生前で唯一の個展が、それも国外であるパリで開かれたことだ。この展覧会のきっかけは、ガウディの作品の理解者であるフランスの外商大臣アナトウHanataux、それに画家のブッシュBouche、文学者、美術評論家マリュース=アリ=ロブロンドMarius Ary Leblond, 1880〜1953年)のすすめによるもので、それを既に伯爵の位を与えられることになっているグエイが経済的なに後援したものである。
グエイは会場費から輸送費、準備費など全てを払ったのであるが、当の本人ガウディはもともとこういった自己宣伝的なことは苦手で乗り気ではなかったといわれる。場所はシャンゼリゼ宮内の"国立美術協会"である。そこに送られた展示品は写真百枚以上、うちいくつかのものは1メートルX2メートルという大きなもので、その他石膏模型、図面、イラストなどで、なかでもサグラダ・ファミリア教会御誕生の門の二十五分の一、約四メ—トルの模型、グエイ館の全図面と主階のアーチ現寸模型、グエイ公園アーケードの力学解析図などがこの展紫会のために準備されたものの中で主要なものである。
ラ・ベドレラからのガウディの退陣は、宗教への更なる接近を誘引するが、果たしてそれが建築家としての社会的退陣に、あるいは名声の喪失に重なっていくものか確かではない。というのもこの頃に二、三の興味ある出来事が見られるからである。
まずそれは1910年の春、ガウディの生前で唯一の個展が、それも国外であるパリで開かれたことだ。この展覧会のきっかけは、ガウディの作品の理解者であるフランスの外商大臣アナトウHanataux、それに画家のブッシュBouche、文学者、美術評論家マリュース=アリ=ロブロンドMarius Ary Leblond, 1880〜1953年)のすすめによるもので、それを既に伯爵の位を与えられることになっているグエイが経済的なに後援したものである。
グエイは会場費から輸送費、準備費など全てを払ったのであるが、当の本人ガウディはもともとこういった自己宣伝的なことは苦手で乗り気ではなかったといわれる。場所はシャンゼリゼ宮内の"国立美術協会"である。そこに送られた展示品は写真百枚以上、うちいくつかのものは1メートルX2メートルという大きなもので、その他石膏模型、図面、イラストなどで、なかでもサグラダ・ファミリア教会御誕生の門の二十五分の一、約四メ—トルの模型、グエイ館の全図面と主階のアーチ現寸模型、グエイ公園アーケードの力学解析図などがこの展紫会のために準備されたものの中で主要なものである。


パリの送られたサグラダ・ファミリア教会ご誕生の門の模型 現在では修復されサグラダ・ファミリアに展示されている 以下は会場風景