図版 18 La Sagrada Familia

サグラダ・ファミリア教会、全景。
1909年にはアナーキストたちの市内暴動で教会の焼き討ち等が起きる。また、1914年には第一次世界大戦が、そしてはカタロニア経済恐慌が連続して起きる。ガウディは、建設中の仕事も含めてほとんどの創造活動にストップがかけられてしまう。サグラダ・ファミリア教会の塔はこの時69.72mに達していたが、資金繰りが不調で、25,000ペセタの赤字を出していた。バルセロナ市民は贖罪の教会の建設どころではなかったのだ。世界が大きく変わっていく。宗教への価値観も変わっていく。しかしガウディは、このサグラダ・ファミリア教会の建設に没頭するしか生きる道がない。1916年にはガウディ自ら街へ出て寄付金を集めてまわった。1926年、ガウディの突然の死にもかかわらず、教会の建設は弟子たちの手で細々と続けられたが、すれもスペイン戦争の焼き討ちで中断してしまった。その時地下聖堂に安置されていたガウディの墓は暴かれ、寝泊りしていた教会内のガウディの工房が荒らされた。ガウディが最晩年をかけて打ち込んだ教会の図面や模型ばかりか、彼の蔵書や他のプロジェクトの図面や模型までもが、この焼き討ちでなくなってしまった。
実質的に建設続行が再開されたのは1954年であった。進歩派のアナティストや評論家たちからの建設続行反対の意見も」あるが、いまもいつ完成するか分からないという遅々たるスピードで建設が進んでいる。
カサ・ミラ(ラ・ペドレラ)屋上からサグラダ・ファミリア教会を遠望する。手前がご死去の門(受難)で現在彫刻家のスビラックス(Josep Maria Subirachs, 1927- )が彫刻の制作に励んでいる。何はともあれ 、サグラダ・ファミリア教会は、バルセロナ市のアーバン・シンボルとして世界に知られるようになった》

名古屋デザイン博

「ガウディの城」展カタログ

写真解説より

1989年刊行

後記

2011年11月27日撮影