ガウディとガウディたち Vol. 4

1768年、新たに陸軍大将として就任したリクラ侯は、この都市環境の現状を市に対して無規制であるとして勧告を発している。条文のほとんどは、職人たちの占める1階の手工業の仕事場や、小さな店舗の急増に起因している悪化した街路の整備というものに関してで、リクラ侯の72年の退陣まで飲料水の供給、市場の配置、市内交通といった人ロ急増を引き金として起きた都市構成問題解決に種々な処置がとられている。

具体的には1771年、建物に関する初の近代的規制条例として発布され、これにはつぎのような内容が含まれていた。

街路に面した出店の許容巾、バルコニーのファサード面からの突出許容寸法、ブラインド付出窓や展望楼への課税、雨搭設置義務、バルコニーを延長して隣接の建物と連結させることへの規制などであるが、この種の規制が1823年と38年にも市役所から出されている。

これらのなかでも特に注目に値することは、「ボラーダ」と呼ばれる街路側への二階部分からの張り出しを禁じたり、通りを渡って架けられた橋状の通路を取り払わせたりしていることだ。1823年発布の条例の19条には「ボラーダ、翼、橋は建設を禁ずる。何人も翼、ボラーダ、橋を建てることはできない。これに反した左官は10リブラの罰金、家主には費用負担で取り壊しを命ずる」とあり、次の20条には既存の建物からのこういった突出物は2ヶ月以内に取り壊し、違反するものは25リブラの罰金を課すと謳われてる。

これはファサードの整備をその平面性を取り戻すことによって解決を求めようという、産業革命を目前にしての都市での前工業時代的解決といえるものであろう。

バルセロナ市のこの人ロ急増も18世紀の末から19世紀の中頃まで戦争や疫病が相次いで、膻這いの状態が続いていた。13万を数えた1798年を数字のうえから超えたのは、1847年以降を待たなければならない。これらのうち、1834年の全ヨーロッパを襲ったコレラでは興味ある数字が読み取れる。つまり、バルセロナでの死者は3521人と住民の2.9%に及んだのに対し、パリは2.4%,モスクワは1.5%、リールは1%というようにバルセロナの死亡率が異常に高いことである。リクラ侯の街路整備策は市壁内の都市環境改善に、決して充分な功を奏したとはいえない。ただし、ファサードからの突起物は消えうせたのは確かだった。

中部建築ジャーナル1986年11月号より