今井兼次教授

しかし例外がなくはなく、近代建築運動の形成期で一貫してガウディを理解しようとし、擁護してきた早稲田大学の故今井兼次があった。 彼はまず一九二六年、ヨーロッパの地下鉄の駅を視察するという目的で給付留学生となってヨーロッパへ出向くわけであったが、どう考えてもこれはほとんど表向きの事で、別に目的があったのだろう。 本当は現代ヨーロッパの新風をつぶさに見て回ろうというものであったにちがいない。 そのなかでもバルセロナへ行って、ガウディに会うことが大きな目的のひとつであった。 確かにちょうどこの一九二六年にバルセロナの地下鉄は開通している。 しかし、彼の地下鉄についての視察報告は現在ではほとんど埋めてしまっているが、ガウディの一九二八年に建築学会に発表した論文 から、一九三八年八月号の「建築世界」第八巻はじめその後の一連の論文は、この近現代建築の動きの中で一貫した評価のもとに今も光を放っている。
今井兼次の貢献はまさしく、歴史家、評論家には真似のできない、建築家として設計活動に従事したものでなければ分かり得ないヴィジョンがあったからに他ならない。
その後の日本でのガウディ研究の展開は池原義朗、入江正之の論文『アントニオ・ガウディ研究ノート』 のII章「日本におけるアントニオ・ガウディ論の系譜」に入念に分析されているからここでは触れないが、それによれば彼らによって一九六〇年から六十五年と一九七〇年から七十五年というふたつのピークをもち、それぞれ時代を正当化する理屈が付けられている。
建築への批判、評論というものが時代の移り変わりにより変遷してきているというのは、ほとんど日常茶飯事で誰もがそれを自己体験している。 しかし、特にここ百年の建築というのは各メディアによる情報の氾濫が手伝って批判、判断基準への誤りというのが目まぐるしくも幾度となく繰り返す中に淘汰され、現代の建築が作り出されていっているのは間違いない。
話しが少しずれてしまうが、ガウディのコルブ評がある。 『模型を見たあの建築家は平行四辺形の集合で梱包の箱を荷降ろしする駅のようだ。 あるものは棚を思い出させたりする。 この人は大工のメンタリティーを持っている。』
とにかくガウディはまさしくこういった建築のクリティシズムの渦中に置かれ、比較的最近まで大勢的にはこっぴどく非難され続け、あるいは一部では過剰に庇護されてきた建築家の一人であったといえよう。