モデルニスモ

最近ではバルセロナの近代美術館の館長であったクリスティーナ・メンドーサ(現カタルーニャ美術館館長)と兄の文学者であるエドゥアルド・メンドーサは『モデルニスモバルセロナ』の中で『この世代の中でも無論いくつかの例外を見るべきであろう。 アントニ・ガウディのジェネレーションをそれに加えるのに依存はあろうはずがない。 空間の構成を変えた、言葉を変えれば構想した建築は深遠なところでの構築の天才的で革新的な建築家。 アントニオ・ガウディの人となりそして作品は空間やこの本の意図するものさえも彷彿させるばかりの複合さを見せている。 同世代の建築家ドメネク・イ・モンタネール と違って、自らの作品を知らさん由もなかった、つまり、いかなる建築運動をも推進しようとはしなかったし、いかなる理念を押し付けようとすることもしなかった。』 と、ガウディの行動から、あらゆるコンテクストからガウディの作品を外そうとしている。
ガウディはアール・ヌーヴォーの作家なのだろうか。 という議論も繰り返された。
こういうなかで、レオナルド・ベネヴォロ著の『近代建築史』のスペイン語版 ではマドリッドの建築評論家カルロス・フローレスカタルーニャで展開されたモデルニスモの建築運動をガウディは別扱いとしていながらも、次のような二つにこれを分類して説明しようとしている。
1) レナシェンサ のモデルニスモ
2) マニエリズムのモデルニスモ
前者は十九世紀中頃の主に繊維産業によってもたらされた経済的な繁栄、それに伴った政治意識の目覚め、あるいは民族主義によって押し進められた、歴史、文化的な清算、つまりカタルーニャのアイデンティーの模索であるのは言うまでもないが、建築的に見ればアカデミズム、折衷様式との決別であった。 このオピニオン・リーダーとなったのはガウディより一年先輩に当たるドメネク・イ・モンタネールであった。 彼の論文『国民建築をめざして』はこれを明快に論理立てている。
後者はアール・ヌーヴォー、ゼセッション、リベルティーなどの様々なヨーロッパでの新傾向に呼応した当時代風のエレメントの操作である。著者はここでさらにアール・ヌーヴォーの傑作とされているオルタのタッセル邸の建設年代と比べてガウディのビセンス邸の建設がほとんど十年も早い事を特記している。
歴史的にカタルーニャは海運で富みながらも、スペイン統一時代の王位継承では不運が続き、隣接のアラゴン王国に合併され、さらにカスティージャに吸収されてしまうという不運が続いたためか、逆に民族意識が強く、しかも古くからの港町という立地条件もあり、新らし物好きで、中央政府のあるカスティージャに対抗意識を燃やしている。 これは現在サッカーの試合という大衆的なことから政治はもちろんのこと思想、哲学、文学、建築、美術運動に至るまで、ことごとくマドリッドを意識していることからも分かることだろう。