建築をする場

また、重要ないくつかの出来事がガウディの時代のバルセロナで起こっていた。 ガウディは創設されたばかりのバルセロナ建築学校に入学した。 地方都市レウス で生まれた一介の銅細工職人の次男では、もしマドリッドにしか学校がなかったらエリート階級の教育の場である建築学校への進学はさらに困難なことになっていただろう。
ガウディがさらにラッキーだったのは産業革命の結果として、繊維産業を中心にゴールド・ラッシュと言わせたほどのカタルーニャ経済の繁栄、 それに伴って起きた市域の拡張という時期にバルセロナで出くわせたことである。 これについては次章で詳しく述べるが、バルセロナではセルダ による都市計画の大々的な拡張計画いわゆるエイシャンプレ計画 が実行され続々と新しい都市域が広がっていった。 ガウディは建築家になった時期にこれに遭遇したのであった。建築家として作品を残す場も富も、幸運にもガウディの前に用意されていたのだ。
しかし、ガウディはごく限られたクライアントに擁護され、ごく限られた数の作品しか残さなかった。  没後ですら評価は定まらなかったのはすでに建築批評の推移で見てきたようである。 現在ですら観光客集めには貢献しているものの、果たしてガウディの評価は今だに定かではないのではないか。


1871年県立美術アカデミーから独立して現在の建築高等学校の前身である建築学校が出来る。ガウディは1873年入学している。

Reusを出生地であるとする説と隣接のRiudomsの出身であるとする二つの説がある。

エンジニアIldefons Cerdà(1815〜1876年)によるこの拡張計画はJoan Busquets『Barcelona』,Colecciones Mapfre 1492, 1992年, 125頁によれば実際の開発の波は1888年の万博の前後、世紀末前後、その後の新政府の時代に分けられている。ガウディが建築家となったのはその最初のエポックだった。

エイシャンプレ(Ensanche/Eixample)は拡張の意味があり同時代スペイン全国で計画がされ、現在ではエイシャンプレ地区という呼び方がされている。

ガウディは建築作品で約25程度しか実現していない。拙書『ガウディの生涯』、彰国社、1980年、259頁。