カフェ・ペラヨCafé Pelayo

所在地:Calle Pelayo /Las Ramblasの角

1883〜1888年

晩年のガウディはサグラダ・ファミリア教会の工事現場に泊まりこんで、仕事と生活を共にしてこの贖罪の教会建設続行に専念した。これには一般的にはある解釈が付け加えられている。つまり、敬虔なる宗教心からくるあたかも仙人にでもなったガウディというのがそれだ。とりわけガウディの晩年に弟子となった人たちとその世代の人たちによって語られたのが、この宗教的な動機からということであった。もっともこれに議論をはさんだ人も少なくなかった。若い頃の進歩的知識人の溜まり場になっていたカフェ・ペラヨの出入り はどう見ても敬虔なカトリックがすることではない。一番素直な考え方が、ガウディは教会の建設に閉じこもれば、誰からも干渉されず、自分の思い通りのことができるというものではないだろうか。ガウディは最大の理解者であったグエルを亡くし、恐慌の真只中にあって新しい仕事を得る社会的な状況でもなく、唯一創造活動にのめり込めるのがこのサグラダ・ファミリア教会であった。 ガウディはサグラダ・ファミリア教会建設に没頭したばかりに、ミスティックな建築家というラベルさえ貼られてしまったのだ。
しかし、1883年から88年にかけてガウディは教会を罵るような連中が集まるカフェ・ペラヨに出入りしていた。30年代前半のガウディはあくまで進歩派であり、純科学的な指向を持っていたに違いない。またそういう連中と接触さえ持っていた。つまり、建築家ドメネック・イ・モンタネール、画家シモン・ゴメス(Simón Gómez, 1845 〜80年, 若くして他界するがムリージョなどの影響下でレアリズムを目指す)、エンリック・ゴメス(Enric Gómes,1841〜1911年, 本名Enrique Gómez Tible、グアテマラ出身の文学評論家), 文学者バルトリーナ(Bartolina), エッセイストであり文学評論家のジョセップ・イサルト(Josep Ixart,1852〜98年)、劇作家、詩人アンジェル・ギメラ(Ángel Guimerà,1845〜1924年),そして学生時代ガウディが尊敬していた文献学のミラ・イ・フォンタナルス(Milà i Fontanals, 1818〜1884年)らの集まるカフェ・ペラヨ(Café Pelayo)に出入りしていた。彼らは当時のそうそうたるカタルーニャの進歩的知識人で、これにガウディも列席していたのである。

カフェ・ペラヨがあったラス・ランブラスとペラヨ通りの今