マタロのモレウ家 Casa de Pepita Moreu

所在地:Carrer Sant Antoni, 62, Mataró
1880年前後

マタロMataróはバルセロナから27キロばかり海岸線を北上したところにあり、1848年スペイン最初の鉄道がバルセロナとの間に敷設された町である。
マタロの女つまりジョセファ・モレウ(Josefa Moreu, 1857〜1938年)、通称ペペタはマタロ生まれの裕福な家庭に生まれた女性で、ガウディが生涯愛を告白した唯一の人と言われている。4人兄弟の長女であるペペタはせいが高く、金髪美人でしかもインテリな彼女は、当時としてはまず珍しかった水着を着て海水浴をしたとか、その妹三女はフリーセックス、政治的には共和制を支持するという長女と三女はともにかなりの進歩的な人柄であった。次女はそれに引き換え母親似で、敬虔なカトリックで生涯14人の子供をもうけている。父親はというと度重なる不倫に家をおい出されていた。ことろが、このペペタは事もあろうにカルリスタ、ジョアン・パラウ(Joan Palau)と18歳という若さで1875年に結婚している。カルリスタというのはスペイン継承戦争(1701〜1713年)に成立した政党で、リベラルどころか伝統主義者、反自由主義者なのである。夫婦はジョアンの結納金で船を手に入れ、モロッコのスペイン領メリージャ、セウタを結ぶ運送会社を始めるが、土地になじめなかったのかジョアンはアル中になり、ペペタが妊娠したのを知ると黙って船を売り飛ばし、彼女の前から姿を消してしまった。一人残されてしまったペペタはオランのカフェでピアノを弾いて生活を立てていたが2ヶ月後、彼女の身の上に同情した船乗りに助けられ本国へ戻れることになった。マタロに戻ってからはマタロの協同組合のフランス語の教師として籍を置いていた。
ガウディと知り合ったのはこの時期のマタロである。つまり、子供が一人あり旦那に捨てられ、オランからやっとおもいで故郷に戻ってきた女にガウディは惚れてしまったことになる。幸いにも夫であったジョアンはブエノス・アイレスで結婚をしていたということが分かり、結婚を取り消す手続きをし、戸籍上は未婚ということになっていた。当時のガウディといえば田舎者の顔を隠すかのように髭をはやし、髪はきれいに撫で付け、町一番のテーラーであつらえた服を着て、馬車を乗りまわすという生活をしていたのだ。政治的にはリベラルで、特に1874年から76年頃には教会をののしる事に嵩じていた連中が集まるカフェ・ペラヨに出入りしていたガウディであった。 
日曜日の彼女の家というのはこのガウディには楽しかった。男手のない家でガウディはそれを買って出たからだ。大きなサロンでワインのコルクを抜いたり、テーブルのセットを手伝い、彼女の魅力に陥っていったのだ。しかしペペタはガウディの求愛を受け入れなかった。これには彼女の後年の若き日の極端なリベラルな生活ぶりを抹消しようという努力から、リベラルなガウディとの交際を断ったのだろうか。ガウディが求婚した時には別人と婚約していたのだった。
ペペタの家は現在残っていない。ありふれた住宅が建ってしまい。住民の記憶からさえ消されようとしている。