ペラ・ジョアン・カンピンス

Pere Joan Campins(1859〜1915年)
マジョルカの司教。
11歳でマジョルカの神学校に入る、卒業後はトレドで神学を修めた。島のポレーラスの教区教会で僧侶を務めた後(1887〜93年)、パルマのカテドラルの参事会委員となり(1893〜97年)、司教セルベラの死に司教代理(1897〜98年)を務め、翌年から没年まで同司教を務めた。
司教としては特にフランス革命後、人々の宗教への遠ざかりを感じていたカンピンスは、20世紀に向けて教会の改革を試みた。自然科学、文学の大会、コンクールをオーガナイズし、科学コミッショナーを編成して、天文台を使ったりしている。この時期はローマのレオン13世(1878 〜1903年在位)とも同調していた、レオン13世も天文台を作ったりして、キリスト教に科学的な解釈を加えていくという革新派であった。しかし、その次のピオ10世(1903〜14年在位)は保守的で、逆を行っていたが、それでもカンピンスは信念を曲げなかった。改革があってこそ、時代の人々に信仰心を起こさせるのだと確信していたのだった。
ピオ10世のローマからも冷たくあしらわれていたのだが、1905年はちょうど皆既日食があって、この天文台が最高の観測地点であった事も重なって世界中の科学者がここに集まった。司教座のアーカイブや、司教座のミュージアムを開設したのもカンピンスだった。
また、物的な補修、修復を通じて復活を試みた司教だった。神学校の組織改造、カリキュラムの改編までもやってのけた。教会の修復に努力した。リュックの修道院の聖堂(Santuari de Lluc)の修復、パルマのカテドラルの修復などに尽力している。
この司教は1899年の11月20日バルセロナサグラダ・ファミリアのガウディを訪ねている。1901年の夏司教はローマへ行く途中、フランス、イタリアのカテドラルを実際に身歩いている。そして8月19日、再度ガウディを訪ね、設計依頼をている。1902年3月7日参事会はガウディへ設計依頼する事を決議、同月の27日にガウディは始めてこの地を訪ねている。その滞在中の3日間でガウディは基本構想を製作、8月の13日に再びガウディは木の模型とともにパルマを訪れ修復のアイディアを提示している。4月の11日にはステンドグラスのアイディを提示、10月31日には実施設計とステンドグラスのサンプルを持って、ルビオとともにパルマを訪ね、翌年の6月19日以降はこのプロジェクトの担当者としてルビオはパルマに居を移している。