クリストフォル・カスカンテ・イ・コロン

Cristòfor Cascante i Colom (1851〜1889年)
建築家。
ガウディとは建築学校での同級生。学生時代はガウディも働いたフォンセレと仕事をしている。1878年卒業に卒業すると師マルトレイ*のアシスタントとしてマルトレイがコミージャスでしていた仕事の現場監理としてコミージャスへ1882年以降移り住む。将来グエイの義父となるアントニオ・ロペス*の依頼した仕事の現場を見るためである。アントニオ・ロペス(コミージャス候)は翌年の1883年1月16日に死んでしまうが、建設の遺志はその子クラウディオ・ロペスによって引き継がれた。ロペスの生地に錦を飾るために建設した居館(Palacio de Sobrellano)はじめ、ロペスを葬るチャペル(1881年)、そして法王大学府(Universidad Pontificia, 1889) 。また病院(Santo Hospital, 1888)、マルケス候のモニュメント(1889年)これらはドメネク・イ・モンタネールの設計になっているが、現場はカスカンテがみた。ガウディはやはりここでマルトレイの弟子として、チャペルの家具を何点か設計しているが、グエイの直々の口利きでエル・カプリチョを設計しているが、ガウディはこれの設計監理をカスカンテに委ねている。ガウディはこのために精巧な模型を作り、図面もたくさん用意した。このためにガウディは現場を見ていないばかりか、生涯コミージャスには行っていない。ガウディの実現した作品で唯一現場を見ていない作品という事になる。

コミージャス候宮