ジャウマ・カタラ・アルボサ

Jaume Català i Albosa (1835〜1899年)

宗教人。
20歳で僧侶となり、1883年にはバルセロナ司教となり、これを99年まで務める。
彼が司教である時代にカテドラルは正面ファサードを完成させ、幾つかの教区教会も市内に新たに建設された。1885年に起きたバルセロナコレラの大流行では町にとどまり、信者を見舞ったがカタラ自身も9月にコレラに感染している。ガウディはといえば内陸のサン・フェリウ・デ・コディーナス(Sant Feliu de Codines)に疎開している。
翌年の1887年3月にアレージャの祭壇計画の認可を下したのがこの司教であった。
これらの大流行時の活躍や、死刑反対論、労働者階級層の擁護などでポピュラーな司教であった。
ガウディとは、アレージャの後、サグラダ・ファミリアで接点がある。
1890年6月30日サグラダ・ファミリアの発案者ジョセップ・マリア・ボカベージャ*に対し教会側として正式にサポートするという協定を結んだ。
さらに1892年のボガベージャの死にサグラダ・ファミリアの建設事業を運営していた協会(Asociación de Devotos de San José)は その義理の子マヌエル・ダルマッサス*と娘のフランセスカ・カベージャ・イ・プーチ(Francesca Bocabella i Puig)に受け継がれたのだが、司教は民間の協会ではなく、教会も直接介入した委員会を設立することにし、1895年にこれが公示された。そのメンバーは
Jaume Català i Albosa, バルセロナ司教
Frederic Millan i Franc, 会長
Joan Martorell i Monteys*
Àlvar M. Camin i López
Joan Crisòstom de Dalmases i Riba 会計係
Jaume Nogués i Taulet
Ramon Nogués i Segarra
Leopold Gil i Llopart書記
というものであった。