ベントゥーラ・ロドリーゲス・ティソン

Ventura Rodríguez Tizón
生:Ciempozuelos[マドリッド県]/1717年 没:マドリッド/1785年
 スペインの建。建築家、建築長を多く出した家系の出身で、若くしてフランスの軍事エンジニア(エティエンヌ・マルシャン/Éスペインの建。建築家、建築長を多く出した家年没)のもとにアランフェス宮(Aranjuez)で仕事をしている。バロックの時代に育ったにもかかわらず、クラシシズムへ展開させ、その多産な創造性をみせている。ある研究者によれば、生涯140のプロジェクトを残したとされているが、そのうち実現されたのはわずかに3分の1程度だった。それでも当時としては膨大な仕事量であった。ローマのサン・ルーカ・アカデミーの会員、マドリッドのサン・フェルナンド・アカデミーのディレクター、マドリッド市の建築長、王室工事長などを務めた。エティエンヌ・マルシャンのもとで働いた後、イタリア人ガルッツィ(Galuzzi)に建築における透視画法やエセノグラフィー的な効果を学んでいる。1735年以降マドリッドの新王宮の建設が始まるとフィリッポ・ユヴァーラ*のもとでドラフトマンとして働き、ユヴァーラの後継者、ジョヴァンニ・サッケッティ*には建築エンジニアに任命された。一説には同宮の礼拝堂は彼のプランによるとさえいわれる。
 ロドリーゲスの建築は3期に分けられるが、その第1期はマドリッドのサン・マルコス教会(San Marcos, 1749〜53年)に見られるように、王宮建設時に学び取ったイタリアのバロックを踏襲するもの。またこの時期、1750年にはサラゴサのピラールのバシリカの聖母の祭室(Pilar, Zaragoza)のデザインを依頼されている。1753年にはクエンカのカテドラルのトランスパレンテ(Transparente, Cuenca)、マドリッドのエンカルナシオン教会のインテリア(Encarnaciンカ)などを残している。1760年から始まる第2期では空間とヴォリュームの配置は単純化され、装飾も取り外される。この時代にはバジャドリッドのアグスティーノス・フィリピーノスのカレッジ(Agustinos Filipinos, Valladolid)、バルセローナの医学学校(Academia de Medicina, Barcelona, 1761年)などを残している。第3期は純粋なクラシシズムの作品を残しているが、そのうちでは、パンプローナのカテドラル・ファサード(Pamplona)、ボバディージャ・デル・モンテ(Bobadilla del Monte, 1763年)、ハエンのカテドラルのサグラリオ(Jaén)などが挙げられる。

三交社刊 建築家人名事典より

サラゴサのピラールのバシリカ


バルセロナの医学学校