マキシモ・ディアス・デ・キハーノ

Máximo Díaz de Quijano
アントニオ・ロペス・イ・ロペスの子、コミージャス第二侯爵、クラウディオ・ロペス・ブル(1853-1925)の奥さんベニタはマキシモの兄弟であった。ディアスもアメリカに渡って財をなし、しかも故郷はカンタブリアというロペスと同じような経歴の持ち主であり、コミージャスに集まるエリートとの社交を進んでやっていた。1882年6月16日のサンタンデールの経済紙にはディアスの紹介の一文があり、そこには高名なジュリストディアス・デ・キハーノがコミージャスに滞在しているという記事が載せられている。これはガウディに夏の別荘の設計を依頼する前年にあたる。アントニオ・ロペスはすでに1876年に他界し、53年生まれのクラウディオ、あるいはエウセビ・グエイという若い世代に代わっていた。クラウディオはグエイより10年遅れた81年に結婚し、確実に跡取りとしての位置を固めていた。
マキシモの若い無名のガウディへの設計依頼も、この野心家が、早くもロペス・イ・ロペス、グエイとの接近に繋がっていったのであろうか、ガウディに依頼した“エル・カプリショ”も実はロペスが手に入れていた広大な敷地に間借りしているような場所だ。
どうもマキシモ・ディアスは親類の助けを借りて登竜門に入るというだけではなかった。親友ホセ・マリア・ペレーダ(José María de Pereda y Sánchez Porrúa, 1833〜1906年)が小説家として名を残す以前の若い頃はサルスエラ(オペレッタのようなスペイン独自の歌劇)や、戯曲を書いていたのだが、これに曲を付けていた文人でもあった。
ガウディもこの音楽家でもあるディアスに対して、ステンドグラスにギターのモチーフを使ったり、窓を上げ下げ窓にして、これを上げ下げするたびに音が出るような細工をしている。

エル・カプリチョ