プーチ・イ・ボアダの思い出

1929年プーチによって書かれたサグラダ・ファミリア教会の本。これは卒論の時、丸善から3ヶ月かかって入手

サグラダ・ファミリアへどうたどり着いたかと言うと、1973年であったと思うけれども、ガウディ友の会の秘書をしていた建築家のタラゴを当時彼が在籍していたカタルーニャ建築家協会のアーカイブに訪ね、普通には入れないガウディの建物に入る許可をもらった。このことがきっかけでさらにサグラダ・ファミリアを訪ねることになり、プーチにあった。その時80を超えていたのに主任建築家として毎日サグラダ・ファミリアへ通っていた。白いシャツに、黒い上着、ネクタイもきちんと締めていた。ルノー7というスペイン以外では知られていない小さいグリーンの車を運転手に運転させていた。
当時は一緒に建設続行を始めたボネット・イ・ガリも健在であり、二人で今ちょうど移転した学校のある辺りに現場小屋があって、その建物の2階に彼らのオフィスがあった。他にドラフトマンのラモン、アシスタントのピラール、現場管理の名前を忘れてしまったが一人いたぐらいだったろうか細々と設計していた。
ボネットの方は耳が遠くてほとんどまたもな会話が成立せず、何をしゃべったのかも実は覚えていないが、プーチとはよく話した。
彼の方はサグラダ・ファミリアでの仕事の他、建築家協会から資金的な援助を得て、コロニア・グエイ教会の研究書を執筆していた最中だった。私がサグラダ・ファミリアに接近したのは実は建築士会からの援助で彼の研究に必要な図面を起こすことだった。これでサグラダ・ファミリアへ彼に会いに行くというきっかけができたのだった。彼の欲しがっていたデータというのは、傾斜した地下聖堂の柱の角度、そしてその傾く方向を知りたいということだった。彼はすでに全体像を線描き起こしていた。それにより正確なデータを入れかったのだった。A3のこれらの図面は完成後、建築家協会が縦断面、ポーチコのセクションも欲しいということで追加で書いた。これが私の最初のスペインでの仕事になったのだが、2か月間サンタ・コロマに通って実測した。今でこそより正確な図面があるが、つい最近まで私がこの時に描いた図面が研究書には使われている。
この途中経過をプーチに報告すべくサグラダ・ファミリアや自宅によくお邪魔したものだった。

プーチのコロニア・グエイの本へサインをもらいました

同表紙

発表された断面

プーチによるサグラダ・ファミリアの全面改訂版