コンソル・プーチ・イ・ケロル

Consol Puig i Querol
サグラダ・ファミリア付属学校教師
1888年バルセロナ万博に湧く景気に移民した多くの家族のなかにプーチ家があった。バレンシア県のエルス・トルスという片田舎からバルセロナに家族そろって移住した。サグラダ・ファミリアで仕事を得る中でガウディの信望を得るようになった。1893年か94年に弟家族を呼びよせ、この家族がサグラダ・ファミリアの現場の番人となった。番人小屋は一階で、その上にはガウディの工房があった。家族には3人の娘がいて、3番目のコンソルはサグラダ・ファミリアで生まれ、育ったようなもので、ガウディは自分の娘のように可愛がった。
1905年には地下聖堂でミサが行われるようになると、新米の僧侶ジル*が送り込まれてきたが、母親と小さな妹とともに、僧侶の家が出来るまでプーチ家の門番の家住むようになった。この頃にはプーチ家の経済状況もよくなり、門番小屋から近くのアパートに移り住んだ。それというのも3人の弟ができたからだった。
コノソルとサグラダ・ファミリア地下聖堂の新米僧侶ジルの妹はアナーキストが教会を焼き討ちにかけた1906年7月の“悲劇の週間”に刺激され、教育の重大さを感じ、教師になる事を志した。それを経済的に援助したのは他ならないジルであった。1910年にはコンソルは聖体拝領の儀式をした。これで一人前のカトリックとしての自意識を表現できるという儀式をサグラダ・ファミリアの地下聖堂で行なわれた。ガウディは自分の子供のようにコンソルを可愛がっていたので、この日に自らがデザインした金のペンダントをコンソルにプレゼントした。
コンソルは教師としての資格を取ったものの、勤務先がカスティージャだったために、サグラダ・ファミリアの幼稚部に残ることにし、図書館員の資格を取るための勉強を続けた。この学校もトップで卒業すると、バルセロナ県内のサジュエンに勤務先が決まり、翌年にはもう少しバルセロナに近いカネット・デ・マルに配属になった。
1930年には教師としての仕事を得、バルセロナに戻り姪のモンセと住むようになったが、このモンセが聖体拝領の儀式をした時にコンソルはガウディからもらった大切にしていたメダルをプレゼントしている。
1930年11月には独裁政権のプレッシャーでジルは裸同然にサグラダ・ファミリアを追い出されます。追い出された住む場所すらないジルは姉の家に一時住むのですが、サグラダ・ファミリアの近くに住んでいたコノソルの家に厄介になるようになった。
この時ガウディからもらっていた机、本がコンソルの家に持ち込まれました。机はガウディが卒業して間もなくデザインしたものでした。1931年には第2共和政政府が出来ると教育システムも大幅に改編され、宗教へのプレッシャーがかかり、サグラダ・ファミリアの学校もその例外ではなく、正式なタイトルを持つ教師がいないという事を盾に150人の生徒の行方が危ぶまれました。この時コンスルが先々の事も考えず教師として名乗り出ました。これで、学校の方は閉鎖する必要も無くなった。
悲劇はそれから起こりました。1936年の7月19日独裁政権の成立に、スペイン市民戦争が始まるわけだが、カタルーニャではフランコ政権と直結しているカトリックに対する風当たりが強くなったのです。サグラダ・ファミリアも焼き討ちにあい、付属学校も焼かれてしまいました。この時コンソルが子供の時から親しんだガウディの工房の下の管理人の家も壊されてしまったのです。
更に7月26日夜9時にコンソルの家に自由青年団ファシストのレッテルを貼られていたジルを探しに現れました。この時ガウディからもらった机や本などは窓から道路に捨てられました。
ジルはもちろん、自宅にいないと言ったコンソル、それに匿おうとした隣人も連行され、3人は銃殺されてしまった。

コンソルが子供の時に住んだ家、ガウディの工房があったところ

コンソルの両親が住んだ家がこの辺りにあった