エリアス・ロージェント(2)

学生時代からの中世建築への傾倒は、これらの旅行で見聞した、あるいは同行の審美学者からの影響もあり、同時代では飛びぬけた存在となり、1871年には新たに出来たバルセロナ県立建築学校の校長に就任した。それから1889年辞表を出すまで学長として実務、学究活動を並行して活動した。つまり、ガウディが学生時代(1873年から78年)の建築学校の学長であったわけだが、ロージェントはガウディではなくドメネク・イ・モンタネールを愛弟子としていた。ドメネク・イ・モンタネールも同じマドリッドの大学で学び、名のある家の出身であったからだろうか、ロージェントは後継者としてドメネクを見ていた。1877年には早くも材料学の講座の主任教授として任命していた。
建築家としてはバルセロナの大学が代表作品であろうが、これに見られる古典的なプロポーション、半円アーチなどからも彼の中世建築への傾倒が明らかに見て取れる。1887年時のバルセロナ市長、フランセスク・タウレットの命で1888年バルセロナ万博の指揮を取る。この時会場であった、シウタデーリャ公園はコンペの結果プロジェクトを進行させていたフォンセレ*の案に大幅に手を入れ、若いドメネク・イ・モンタネールを引き入れたり、ひと悶着起こしている。

《主要作品》
マタロの刑務所(La prisión de Mataró, 1863年)
バイビドリエラの貯水池(El pantano de Vallvidrera, 1865年)
カサ・アルヌス(La Casa Arnús, 1868年, Passeig de Gràcia, Barcelona)
カサ・アルミラル(La Casa Almirall, calle Pelai, Barcelona, 1870〜71年)
バルセロナ大学(Univercitat de Barcelona, 1863 - 1892/93年)


バルセロナ神学校(El Seminario mayor de Barcelona, 1879年)

グラン・ビアの住宅(Casa en Gran Via/Layetana)

サン・クガットの修道院回廊修復(Sant Cugat del Vallés, 1880年)
モンセラ修道修復 (Montserrat)
リポイ修道院の再建(Ripoll, 1862〜92年)