バルセロナのガウディ建築案内番外編(41)

グラン・ホテル・エウロパ Gran Hôtel Europa (1911年)
1910年の5月には体力の回復のためにガウディは3週間ビックで休養しているが、1911年の5月から6月にかけて、持病であったマルタ熱の療養のため、友人の医者サンタロの薦めもあって標高1200mのピレネー山脈の懐にあるプーチセルダの町に滞在している。未だにこの町には19世紀末の前後に建てられた一軒家の別荘が建ち並んでいて、ブルジョアたちが夏の過ごしやすい気温を利用して休暇にあてた頃と同じ雰囲気がそこここに残されているが、グラン・ホテル・エウロパ(グランド・ヨーロッパ・ホテル。当時の絵葉書にはこう書かれているがその写真にはグランはない)はそれよりは町の中心部に位置しているが、名前はグランゴホテルとなっているが今ならせいぜい3つ星ホテルほどの構えで、しかも現在はホテルとしては営業されていなく、建物全体が住宅として改装されて使われている。わずか当時の面影が残るのはファサードにHE(Hotel Europa)の文字だろうか。ガウディはこのホテルのために階段をデザインしたとされているが、このピアノ・ノブレの手摺りの1コマが今年になって修復され、村のセルダ博物館(Museu Cerdà)に展示されていると新聞発表があった。しかし、その記事にはホテル・ヌリア(Aantic Hotel Núria)のためにガウディがデザインしたと書かれている。何よりもこのホテルに滞在中の6月6日に公証人ラモン・カント(Ramón Cantó)を立てて遺書を作成している。ガウディはこの時60に手が届く年齢で、建築家としてはラ・ペドレラを完成させ、グエル公園のベンチを完成させ、コロニア・グエルの教会の懸垂模型を完成させ、設計の真最中であり、サグラダ・ファミリアは間もなく御誕生の門の設計に入る頃だった。国内での名声も高まり、建築家としては脂の乗り切った時期であった。しかし第一次世界大戦の前触れが、世界恐慌の波がカタルーニャにも押し寄せる気配が迫っていた。仕事らしきものは無くなってしまった。これにガウディも弱気を見せて遺書の作成まで追いやったのだろうか。
オリジナルの遺書はスペイン戦争で失われてしまったがそのコピーが町に残されている(Arxiu Històric Comarcal)。
所在地:Plaça Cabrinetty 
アクセス:バルセロナから鉄道か、バス。
セルダ博物館はCarrer Higini de Rivera 4にあり、入場時間は火曜日から木曜日10時から14時、金曜日から土曜日は17時から20時も開館。月曜日は終日休館。

ホテルのあった建物の現在のファサード

広場の名前のプレート

番号は12番地

H Eのイニシャルが残されている

町中にある教会はスペイン戦争で大破された


ロマネスク起源の橋も残る