ファン・デ・コローニア/Juan de Colonia

ブルゴスのユダヤ人司教、アロンソ・デ・カルタヘーナは1442年、ハンスというケルン出身らしい建築家を招いて、双塔のピナクルを建てさせている。ハンス・フォン・ケルンの名は、後の渡来建築家同様、スペイン人にとって発音しにくいため、ファン・デ・コローニアというスペイン名がつけられる(Juan de Colonia,1410〜81年)。その塔 はウルムやストラスブールのものに似ているため南独に学んだと考えられるファンは、その他このカテドラルのビシタシオンの礼拝堂(1433〜56年)をスペイン最初の星型ヴォールトで飾り、サンタ・アナ、コンセプシオンの礼拝堂(1477〜88年)に着手するが、81年にブルゴスの土と化している。
そのアトリエと手法とを受け継いだ、弟子であり、子であるシモンは、スペイン人の妻を持ち、さらにスペイン化され、ファン・グアスとともにイサベリーノ様式 なる、ゴシックのムデハール化したとでもいえるスタイルを生み出すのである。
彼はコンデスタブレの礼拝堂(1468年頃〜1486年ほぼ完成 )でカスティージャの後期ゴシックのもっとも美しい作品を完成させるが、彼の膨大な仕事量はこの巨大な礼拝堂をこなしきれず、さまざまなアトリエに下請として出している。うちもっともイサベリーノとして見事なのは入口で、粗野、野生的毛深かさ、奇獣、ずん胴の小柱、偏菱形にうろこ状の背景、生殖力、紋章散乱等々といったモチーフが現われている。

ブルゴスのカテドラルピナクル

ブルゴスのカテドラル内のコンデスタブレの礼拝堂。

しかしこれをもっと特色的に示すのはバジャドリーのサン・パブロ教会とサン・グレゴリオ・カレッジの両ファサードであるが、この作者についてはサン・パブロの下半分がシモンの作であるという以外明らかではない。
ともあれこの豊かな比類なきバロッキズム的過剰装飾がイサベリーノのオーナメントの1スタイルとして位置づけられ、その作者の建築的というより彫刻的手腕を明示するものであろう。それがさらに明らかとなるのは、ファンの孫にあたるフランシスコで、彼のデザインは建築というより祭壇彫刻といった方がいい。
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バジャドリッドのサン・パブロ教会正面ファサード
2000年5月11日撮影

サン・パブロ教会同部分


サン・グレゴリオ・カレッジ

■コロニア
Colonia
活動:15〜16世紀
 ケルン出身(ケルンはスペイン語でコロニア)のこの建一族はブルゴス(Burgos)に居を構え、スペイン後期・ゴシックの名作といわれるブルゴスのカテドラル建設に従事。●ファン(Juan, 1410〜81年)はバーゼル公会議後(1431〜49年)、アロンソ・デ・カルタヘーナ司教によってブルゴスに呼ばれる。同カテドラルのビシタシオンの礼拝堂(Visitación, 1440〜42年)を建設、ここに同司教は埋葬されている。また、鐘塔先端部の建設(1442〜58年)にも携わり晩年ドイツ・ゴシックでこれをデザインしている。また、ファン2世(在位1406〜54年)とイサベル女王のために市の入口にあるミラフローレスのカルトジオ会修道院(La Cartuja, Miraflores)の建設を1454年から始めている。その他、バジャドリッドのサン・パブロ修道院教会堂の正面ファサード(San Pablo, Valladolid, 1486〜88年)、セビージャのカテドラルのトランセプトの建設に石工長として参加している(Sevilla, 1497〜1502年)。
 その子●シモン(Simón, 1510年頃没)は1488年にミラフローレス修道院を完成させ、カテドラルの周歩廊の中央部にコンデスタブレの祭室(Condestable, 1482〜96年)を建設している。●フランシスコ(Francisco, 1562年没)はシモンの子でカテドラルのランタン部の建設を始めるがその完成を待たずに死んでいる。またルネサンス・スタイルで市門のひとつペジェヘリーア(Pellejería)の門を建設している。

建築家人名事典
95ページより


サン・グレゴリオ・カレッジ回廊
現在国立彫刻美術館となっている。