エンリケ・デ・エガス/Enrique de Egas

彫刻家エガス・クエマン(Egas Cueman)の二子アントン・エガス(Antón Egas)とエンリケ・デ・エガス(Enrique de Egas)は父の職域をさらに広げて、建築家として働き、ブルゴスのコローニア家に対して、トレードのエガス家と言われるほどの影響力を残している。
アントンは父や伯父の後を継いでトレードのカテドラルなどの仕事を続けるが、1509年、サラマンカのカテドラル建設をカトリック両王に命ぜられ、当地へ行かなければならなくなると、執拗にトレードから離れることを拒み続けるのであった 。はるかフランドルからやってきた者がなぜサラマンカという目と鼻の先へ行きたがらなかったのだろうか。
それにひきかえ、エンリケは北はサンティヤゴ・デ・コンポステーラから南はグラナダ、セビィージャまで仕事をし、その没年(1534年)ですら二ヶ月をサラマンカでおくっている。
彼は1476年からその晩年までトレードのカテドラルで働くが、その他にパレンシアのカテドラルの僧席(Palencia,1497年)、サラゴサのセオの頂塔(Seo de Zaragoza,1498年)、サンティヤゴの病院(1504年、アントンと協同)、トレードの病院、グラナダの王室礼拝堂(Capilla Real,1505〜1519年)、グラナダのカテドラル(1521〜1528年)、アルハマの教会(Alhama, Granada,1526−1532年)などを設計し、監理し、あるいは続行したが、建設コンサルタントとしても働き、サラマンカ、マラガ、ハエン、セゴビアオビエドなどで仕事をしている。

サラマンカのカテドラル
2011年3月6日撮影

サンティアゴの巡礼病院。近年は広場への車の進入は禁止されています。カテドラルの大階段からはこのように見えます。
1976年6月撮影

病院内パティオ

病院内パティオ入り口のアーチ

王立病院Hospital Real
16世紀の初頭、カトリック両王の命によって建てられた巡礼者のための病院、宿泊施設で、後には孤児収容所としても利用された。現在は国営の高級ホテル(Hostal de los Reyes Católico)となっている。
スペイン広場に面した正面入り口はプラテレスコ様式、二階のベランダ、屋根の軒とともに非常に細かい彫刻が施されている。入り口はいかめしい制服のドアマンがいるので、気おくれする若い人もいるかもしれないが、ヒッピースタイルでもなければ何も言われない。四つの中庭を見たり、入り口から左に進んだ角にあるカフェテリアでの一休みもできる。
『スペインの旅』1977年初版本より
145ページ


サンティアゴの病院は現在パラドールになっている。客室はそれなりに雰囲気を出している。広場に面した部屋のひとつは国王のために常にリザーブされていて、予約は不可能しかし運よく取れる場合がある。


グラナダのカテドラルに隣接されている、カトリック両王のチャペル Capilla de los Reyes Católicos
2006年2月19日撮影

■エガス、エンリッケ・デ
Enrique de Egas
生:Toledo?/1455年頃 没:Toledo/1534年頃
 スペインの建。ブリュッセルの彫刻家エガス・クエマン(Egas Cueman, 活動1448〜94年)の子。後期ゴシックの代表的作家であり、プラテレスコ様式の開発者のひとり。トレドのカテドラルの建築長を務め、1499年にはサンチャゴ・デ・コンポステーラの王立病院の設計をし、その現場監理をしている。1504〜15年はトレドのサンタ・クルス病院(Santa Cruz)を監理しているが、この美しい入口はプラテレスコ様式の最初の好例といわれている。グラナダでも病院(設計年は1511年)を建設し、1492年にレコンキスタを成功させたカトリック両王を葬るための王室礼拝堂(Capilla Real, 1506年)を設計している。1523年にはこの地にカテドラルの建設を開始しているが、後年ディエゴ・デ・シロエ*の設計により建設は続けられ、さらに後年アロンソ・カーノ*によって続行されている。その弟●アントン(Antón Egas)はより知性に富んだ作家でエンリッケと1534年まで協働し、トレドの街のゴシック的な街並みをつくる役を果たした。1496年にはトレドのカテドラルの建築長になっている。また、その叔父に当たる●アンネキン・エガス(Annequin Egas, 1494年頃没)はフランドル出身で本名をHantje van der Eyckenといい、トレドのカテドラルのライオンの門建設のためにスペイン入りしている。
建築家人名事典より
116ページ