ファン・グアス/Juan Guas

エンリケのこの成功へ導いたのは伯父アネキンではなく、師ファン・グアス(Juan Guas,1496年没)である。グアスは父ペドロよりも、その頭であったアネキンよりも秀れた才を示し、シモン・デ・コローニアとともにイサベリーノを担うが、それには1472年のイサベル1世との謁見以来、王室建築家としてカスティージャ最大の建築家としての幅広い活動にもある。
グアスの両親はブルゴーニュ人であり、父はアネキンのもとで働く建築家、彼自身も1453年の記録によればライオンの門で働いている。当時は公認見習いというかたちで日給15マラベデイを受けていたという。というのも当時のギルドが決めた慣例として、マエストロになるには見習いを5年間、石工として過ごさなければならず、その間の結婚すら許されていなかった。
グアスはちょうど5年目の1458年にマエストロとして公認され、翌年スペイン人マリーナ(Marina Alvarez)と結婚している。その後すぐにセゴビアのカテドラル・ファサードという仕事を得(1461〜1463年)、同地のパラル修道院(El Parral)などにも参加するが、彼のゴシックのスペイン化は、実にこのパウラールの修道院(El Paular, Madrid,1473年〜)に始まる。
彼はこの回廊の内側に鐘乳装飾を用い、またイサベリーノ特有のチュードル・アーチの玄関をつくっているのである。しかもグアスの建築はさらにトレードのサン・ファン・デ・ロス・レイエス(S. Juan de los Reyes,1478年頃開始、1494年ほぼ完成)、グアダラハーラのインファンタード宮(Palacio del Infantado,1480〜1492年)、サン・グレゴリオ・カレッジ(S. Gregorio,1496年頃完成)、マンサナーレス城のガレリー増築(Manzanares,1480年頃)で開花する。
彼は、後の彫刻家ファン・デ・フニ(Juan de Juni, 1507〜1577年頃、本名Jean de Joigny)や画家エル・グレコ(El Greco,1541〜1614年、本名Domenikos Theotokopulos)のように外人芸術家でありながら、スペイン人よりもスペインの心を表現し得た芸術家であろう。

トレードのサン・ファン・デ・ロス・レイエス

トレードのサン・ファン・デ・ロス・レイエス
2009年4月10日撮影

インファンタード宮ギャラリー部分

インファンタード宮正面ファサード
1971年12月8日撮影

マンサナーレス・エル・レアルの城(Manzanares el Real, Madrid)

■グアス、ファン
Juan Guas
生:1420年 没:トレド/1496年没
 スペインの建、彫。フランドル出身の彫刻家で若年にしてスペインに来たらしい。トレドで働いた●ピエール・グアス(Pierre Guas)の子。カトリック両王の時代には「ゴシックの建築様式を使いながらも、星型リヴやアラブの影響を受けた格子天井といったものを付け加えているイサベル様式」の偉大な作家のひとりだった。1461から63年にはアビラのカテドラルの大門(Avila)に働いている。1461から83年にはグァダラハーラにインファンタード公宮(Infantado, Guadalajara, 1483年)、そしてセゴビアサンタ・クルス(Santa Cruz, Segovia)、パウラールの各修道院(Paular)でも重要な役を果している。しかし、オリジナリティーに富んだイスパノ・モリスコ・ゴシック(スペイン居住の回教徒の建築に影響を受けたゴシックのースタイル)そしてフランドル様式の混在したトレドのサン・ファン・デ・ロス・レイエスの教会堂(San Juan de los Reyes, Toledo, 1477年設計)とその回廊が特記に値する。彫刻装飾と紋章の豊かな起用がこの時代の最大の特徴とされる。また、1480年にはマドリッド北32kmにマンサナーレス・エル・レアルの城の正面ファサード(Manzanares el Real)を建設している。

建築家人名事典より
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