バターリャ修道院/Mosteiro da Batalha


バターリャ修道院ポルトガルの独立を記念して、1388年建設が始まった。初代の建築家はポルトガル人アルフォンソ・ドミンゲス(Alfonso Domingues)と考えられ、彼は15年間、ここで盲となるまで働き、平面計画をほぼ立案したと考えられる。これを引き継いだイギリス人、あるいはフランス人、フゲッ(Huguet)は半島の伝統的プランを受け継ぎながらも、英国的な影響のもとに幅広いファサード、垂直性を強調するエレメント、星型ヴォールトの起用、それにチュードル・アーチを好んで使った。
むろんこの時代のポルトガルはイギリスとの接触は密であり、石工さえイギリスから渡ってきたものと考えられるが、細部はいかにも地方的であり、とくにフゲッの後任者マルティンバスケス(Martín Vasques)以降の時代はこの地方的な装飾が開花する。
マテウス・フェルナンデス(Mateus Fernandes,1515年没)は、これらのうちもっとも初期のマヌエリストと考えられ、インペルフェイタスの礼拝堂(Capelas Imperfeitas,1435〜1438年)の入口アーチ・ヴォルトで、彫りの深く、精密な装飾をつけ、「誠意の存在の限り、尽さん」というマヌエル王の人生訓を200以上彫り刻み、どんぐり、ひなげし、朝鮮あざみといった植物紋様をそれにあしらわせている。
これを受け継いだボアイタック(Boytac)はさらに誇張し、マヌエリーノを個性的なものにしていった。彼自身の代表作はリスボンにあるジェロニモスの修道院(Jerónimos,1500〜1516年に働く)であるが、1516年のマテウス・フェルナンデスの死にバターリャ修道院に呼ばれ、回廊を建設する。ここにひなげしや、朝鮮あざみといった植物紋様をふんだんに使い、マヌエリーノの華麗なる世界を展開させたのであった。
150ページより


いたる所に刻まれた十字軍の紋章

未完の礼拝堂

回廊

■ドミンゲス、アフォンソ
Afonso Domingues
活動:14世紀
ポルトガルの建。スペイン・カステージャからの独立をかけたアルジェバロータの戦(1385年)での戦勝を記念して建てられたバターリャ修道院の身廊、南側門、内陣そして大回廊とその周辺施設(Batalha, 1388〜1402年)を実現させている。ゴシック建築の典型的な例であると同時にイベリア半島の代表的な修道院建築。同修道院は1490年以降マテウス・フェルナンデス*によって建設が続行されている。

三交社『建築家人名事典』
112ページより

バターリャの町のピンコロ石
1992年3月撮影

バターリャBatalha 
国運をかけたスペインとの世紀の戦いを記念した修道院
位置●リスボンの北118km
人口●約6700
MAP●p.7ª4
Info. Largo Paulo VI ℡(044)96180
■交通〈鉄道〉リスボン、サンタ・アポローニア駅から急行約2時間40分、ナザレの最寄り駅ヴァラドからは約20分、マルティンガンサMartingança下車。駅からはバスまたはタクシー利用。リスボン早朝発の列車なら日帰り可能。リスボンからナザレ、アルコバサ周遊の日帰り観光バスがある。
バターリャとはポルトガル語で戦いという意味。しかし、町の名前のきびしさとは逆に、町並みは緑の木々にいろどられた穏やかな雰囲気をもっていて、いかにも門前町らしいところ。見どころは、町の名の由来に関係する修道院で、ポルトガル史上キー・エポックを飾った。

修道院Mosteiro
入場;9時〜17時(夏期は18時まで)。祭日休館。有料。
大寺院とか聖堂とかいわれることもあるが、勝利の聖母マリア修道院
Mosteiro de Santa Maria da Vitóriaというのが正式な名前だ。1388年ジョアン一世の命により建築家アフォンソ・ドミンゲスによって、アルコバサの修道院をモデルとして建立が始まっている。
バターリャの南15Km 、1385年の隣国カンティージャ軍の侵入を防いだアルジュバローダの戦いでは、500人のイギリス槍兵、弓兵がポルトガル軍に参加していたことや、外観がイギリスのヨークシャのカテドラルを思い起こさせるものがあり、修道院建設にイギリス人建築家が協力していたという説もあり、イギリスとの関係が深い。アルジュバロータの戦いではポルトガルは独立を守ったが、イギリスとの関係はさらに深まっていった。修道院への入口は町とは反対側の方向、つまり西側の入口から始めるとよい。
創設者の礼拝堂Capela do Fundador教会
教会の入り口を入ってすぐ右手の礼拝堂。創始者ジョアン一世とその王妃フィリッパ・デ・ランカスターの墓を中心に、息子エンリケ航海王子の墓(正面奥)など、約2世紀の間つづくアヴィス王朝の諸王を祀っている。

王室回廊Claustro Real
教会堂を先にすすんで左手の門をくぐったところ。この修道院最大見もの。ジョアン一世が建設してからほぼ100年後、マヌエル一世によって手が加えられている。この100年は、対スペイン戦争の奇跡的勝利による独立から、大航海時代の輝かしい業績、世界に冠たる一大帝国の建設へとポルトガルが国として飛躍的に発展した時期。こうした動きが回廊のアーチや円柱に刻みこまれ、さしこむ光線が床に描き出すも文様にも輝くばかりの生彩を与えている。回廊の北西には僧たちの手洗い場があり、その前室(現在は戦没兵士などの記念館でみやげもの売り場もある)は僧たちの食堂であった。
参事会Sala do Capitulo
もうひとつの見ものであるこの部屋は、手洗場のちょうど反対側。内部に柱が一本もないという、当時としては思い切った構造。当時この巨大な天井が石の重みに耐えられるとは思えなかったので、石工たちは、工事用の枠組みをはずすと天井の石が崩れて落ち下敷きになって死ぬのではと、枠組みの取り外し作業を拒否した。そこで死刑囚にその作業をさせることになった。ところが自分の設計と計算に自信をもつ建築家はこれが不満で、この大天井の下で作業後の一晩を過ごしたという。崩れ落ちることのなく完成したこの惨事室の左奥角に、建築家アフォンソ・ドミンゲスの舌を一杯出した顔が刻み込まれている。―――「ざまあみろ」。
未完の礼拝堂Capela Imperfeita
一度外へ出た反対側にある。ジョアン一世の子ドゥアルテ一世は、父にならって自分と子どもの墓所になる礼拝堂をここに建てようとしたが、完成を見ることなく没し、後のマヌエル一世も建設をつづけたが、なぜか完成させずに他界、未完のまま現在にいたっている。いたるところに刻まれたドゥアルテ王の人生訓「忠義ある限り尽くさん」の文字や、壁面を埋める植物模様の精緻度は、その完成の不可能さを私たちに思い知らせているかのようだ。

修道院周辺には、おみやげを売る店や季節のフルーツを売る店が並んでいて、これもまたたのしい。

実業之日本社刊 ブルーガイド・ワールド ポルトガル
109〜113ページより
ただしデーターは発刊の1997年のものです。