建築好きのフェリペ2世/Felipe II


プラド美術館フェリペ2世ポートレート

トレドのアルカサル
1972年8月撮影
1537年、10歳になるカルロスV世の子フェリペ王子(1527〜1598年、在位1556〜88年)は49歳になる建築家コバルビアスに対してトレードのいくつかの御用建築を担当するように命じている。その6年後にもコバルビアスにトレードのアルカサールに手を加えるように命じているのだが、フェリペは実に細々とした注文をつけたばかりか、その数年後にはコバルビアスの才能に飽きあきしてしまうのであった。
そして国王となってからの1559年にはナポリで働いていた、スペイン国内ではほとんど無名の建築家ファン・バウティスタ・デ・トレード(Juan Bautista de Toledo,1567年没)をマドリーへ呼び寄せ、王室建築家たちをさしおいて、御用建築を担当させるのであった。
しかし、これはフェリペII世の気まぐれさや、移り気を示した挿話ではない。というより、フェリペは自らの主義主張を建築として的確に表現してくれる、技術者を探し求めていたのであった。
フェリペは生まれた翌年に、すでにマドリーの議会で、カルロスV世の後継者として認められていたため、幼少の頃から将来の国王としてふさわしい教育、つまり、政治学や人文学を学ばされ、コバルビアスへの建設令といったような実際の仕事さえしていた。しかし母親の強い庇護のもとに育てられたマザーコンプレックスの持ち主で、12歳の母親の死や、17歳の政治結婚と、その翌年の妻の死、また生涯4度繰り返した結婚生活といったものに内向的な性格を持ち、攻撃よりも守備を好んだ王である。
彼は事実上破産状態にあったスペインを背おっていながらも、新大陸での都市の新設やら都市計画をはじめ、まさに「黄金世紀」を飾ったインテリ王であり、膨大な版図と、煩雑なその業務を、独特な官僚制度を立てることで処理したので、近代官僚主義の創設者ともいわれている。
フェリペはグレコを好んでいなかったという。というのも、フェリペにしてみればグレコの画風はあまりに個性が強すぎるからである。つまり、フェリペの主義主張というのは、はぐくまれた科学人としての素養、また国内統一の達成完了という最大の政治的課題によって、非個性的な−あるいは超個性的な−ものであり、それをまたフェリペは臆病なまでに探し求めていたのである。
彼は16世紀のヨーロッパを吹き荒れたドグマチズムをふりまわすことなく、ほとんどアルカイックなコンセプトの持ち主であった。
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サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会の幼少のフェリペ二世が指示して作らせたコバルビアスの改装部分
2009年4月10日撮影
コバルビアスアロンソ・デAlonso de Covarrubias
生:Torrijos[トレド]/1488年 没:トレド/1570年
 スペインの建、彫。エンリッケ・デ・エガス*の弟子。プラテレスコやルネサンス様式を器用に使った装飾の作品を初期につくっているが、次期にはフランシスコ・デ・ビジャルバンドによって訳されたセルリオ*の建築書(1552年)に啓発されてクラシシズムの建築家に発展していく。シグェンサのカテドラルのサンタ・リブラーダ(Santa Librada, Sigüenza)の祭壇、ポルトガルのファドリーケの墓(Fadrique, 1515〜17年)そしてサグラリオ・ヌエボ(Sagrario Nuevo, 1532〜33年)の製作を始める。グラダラハーラでは1526年にピエダーの修道院(Piedad, Guadalajara)を建設するが、現存するのは教会の入口のみ。枢機卿タベーラの依頼でアルカラ・デ・エナーレスに大司教館のファサード、パティオ、大階段をつくる(Alcalá de Henares, 1534〜45年)。ヘターフェのサンタ・マリア・マグダレーナ教会(Santa Maria Magdalena, Getafe)は彼の1541年に設計した図面に従い建設されている。しかしながら、1537年以降はトレドが彼の活動の本拠地となる。ここのカテドラルでは建築長を務め、彼の設計によるトラスタマーラの祭室の入口門(Trastamara)は1537年に建設されている。コバルビアスはサン・クレメンテ修道院(San Clemente)との契約を交わしているが、この入口門が特記に価する。サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会のルネサンスの部分(Santa Maria la Blanca, 1550年頃)、サン・ラモン教会の最大祭壇(San Rámon, 1554年)、大司教館の入口門(1541〜45年)、古代ローマのような威厳あるヌエバ・デ・ビサグラの市門(Nueva de Bisagra, 1545〜62年)も彼による。1542から48年は、サン・ファン・バウティスタ病院(San Juan Bautista)の建設を始める。1537年に王室建築家に任命され、この任期中、アルカサールの正面ファサードAlcázar, 1541年以降)、玄関、一階部を建設し、大階段のプロジェクトを提出している。

三交社建築家人名事典
98ページより

サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会
ここはコルドバシナゴーグや、さきほどのエル・トランシト教会に見られたような婦人席はない。またシナゴーグの五つの身廊は四列の堂々た拱廊から成り、白い八角形の支柱は、アルモアド模様の見事な馬蹄形のアーチを支えている。つまり、このシナゴーグは、柱頭部やバシリカ式に見られるキリスト教の要素と、馬蹄形アーチ並びに化粧漆喰細工に見られるイスラム的要素との混淆建築なのである。
小岸昭著『スペインを追われたユダヤ』、ちくま学芸文庫、1996年、170-172頁。より

デスカルソス・レアーレスの修道院正面ファサード
トレド、ファン・バウティスタ・デJuan Bautista de Toledo
生:不詳 没:1567年
 スペインの建。ラテン語ギリシャ語を話し、哲学を解し、彫刻、デッサンのできる父を持ったといわれる。トレドはローマで建築を学び(ミケランジェロ*とサン・ピエトロで働いたとされる)、ナポリで市心の道路ヴィア・トレード建設に参加、サン・ジャコモ教会(San Giacomo)などの仕事をしていたところをフェリペ2世(在位1556〜98年)から1559年にマドリッドに呼び戻され、当時王が着手しようとしていた大事業、エル・エスコリアル宮(El Escorial)の建設に着手することになった。着工は1563年4月23日。壮大さと単純さを基本的なコンセプトとしていたそのプロジェクトは王によって塔の数を減らされ、さらに単純質素化されていった。南面の建設に着手していた頃に彼は死に、その弟子のファン・デ・エレーラ*によって建設は続けられる。彼の実現させた主要な部分は下層にドーリア式オーダー、上層にイオニア式オーダーを使って見事なプロポーションを実現させている福音のパティオ(Evangelistas)である。その他、アランフェスの離宮(Aranjuez,1561年建設開始)、マドリッドのアルカサール(Alcázar)の建設に参加し、マドリッドのデスカルサス・レアーレスの修道院ファサード(Descalzas Reales, 1559〜64年))も彼の手になっている。
三交社建築家人名事典
350ページより