エル・エスコリアル/El Escorial


エル・エスコリアル宮
当時スペイン領であったナポリの総督をしていたバウティスタはマドリーへ呼び戻された。バウティスタは46〜48年の間アントニオ・ダ・サンガッロの後任者としてサン・ピエトロ寺院の次席建築家、つまり、ミケランジェロの傍らで働いたことのある、イタリア・ルネッサンスの精通者ということで、フェリペに呼び戻されたらしいのだが、いざスペインに戻してみると、フェリペはバウティスタをどうでもいいような宮殿の修理や改装などに当てたのである。
その間フェリペはバウティスタの手腕を見定めていたのであろうが、やっと4年後、フェリペは巨大な建造物の設計を依頼している 。
その建造物は、父カルロスV世の墓所、歴代王の霊所、そして敬虔なカトリック信者であるフェリペ自身が礼拝につごうのよいような教会堂、それに政務をとれる宮殿を兼ねた複合建築である。
1563年に始まったその建造物は162メートルX207メートル、窓の数だけで1110ある。プランはフェリペの「個」を超越した、スペインという一国を超越した「万有のデザイン 」と名づけられ、それは中央に教会堂を据え、大小17のパティオやコートで構成された、単純、明解なものである。
ところがこのバウティスタは建設開始から4年の後没してしまい、その弟子が工事を引き継ぐことになるが、この弟子がファン・デ・エレラ(Juan de Herrera,1530〜1597年)である。
このエレラが傑物であったことも確かである。彼はいかなる建築的教育も受けていなけらば、その経験すらないのである。彼の専門は人智学と哲学で、またカルロスV世の命で職業軍人としてイタリアへ出征してはいても建築家でもなければ、画家・彫刻家でもあったことがない。ただフェリペがまだ王子の頃近侍としてブリュッセルへ滞在した時、数学と建築を学んだと伝えられるだけである。
「朕がなんじらに申しおくことで、これだけはそもや忘れるでないぞ。形態の単純性、総体の厳正さ、気負いのない気品、虚飾なき威厳」(フェリペ王からエレラへ)
この意味でエレラ以上の適任者はいなかったかもしれない。彼の前歴はフェリペの意を真に理解できる可能性を持っていた。それに国内やポルトガルおよび新大陸の建築的な統制というものを、スペイン王制の建設的な官僚主義の中央集権システムのもとに推進させ、建築・美術的な面で生涯、フェリペに貢献したのである。
例えばこのエスコリアル修道宮の建設では労働・経済管理という面から、石材のプレファブ化を開発し、クレーンを発明するなど、建設を徹底的に合理化している。
巨大に立ちはだかるマッスに開けられた窓ですら、これっぽっちの装飾すらない穴だけなのである。線は直線、コンポジションはシンメトリーであり、まったくの画一性が重視され、ピラミッドや方形、三角形といった単純な幾何学形態の支配と、あるいはブラマンテの手法の継承ともいえるが、彼にはさらにそれの誇張すらある。その誇張がために、あるいはフェリペの内向性を暗示するのか、外部空間の厳しさに比べて、内部空間の親密さ、華麗さという、内部空間への指向というのも否定できないであろう。
このエスコリアル修道宮の建設中、エレラは建築に熟達し、むろんフェリペの寵愛を受け、フェリペ在位中のすべての公共建築は、エレラの認可を得なければ建設できないことになっていた。それにエレラ自身、セヴィージャのロッジャ計画 、バジャドリーのカテドラル計画 、トレードの市庁舎などを手掛けている。しかし建築的創造性にかけて、エスコリアル修道宮に優るものはない。

エル・エスコリアル
1997年6月撮影


歴代の王の墓所がフェリッペ二世によって作られる

フェリッペ二世はベッドからも礼拝ができるようにと寝室は礼拝堂の横に設けられていた。


■エレーラ・イ・グティエレス・デ・ラ・ベーガ、ファン・デJuan de Herrera y Gutiérrez de la Vega
生:Mobellán[サンタンデール]/1530年 没:マドリッド/1597年
 スペインの建。バジャドリッド大学で人文学を修めた後、カール5世(スペイン王、カルロス1世、在位1519〜56年)期の軍人としてブリュッセルで一時期過ごす。王室に出入りしていたが、その子フェリペ2世(在位1556〜98年)に徴用され、エル・エスコリアル宮(El Escorial)の原設計者であるファン・バウティスタ・デ・トレド*の助手として任命され(1563年)、1567年トレドの死によってエル・エスコリアル宮の工事を引き継いだ。この時フェリペ2世の意向もくんで原設計を拡大している。エル・エスコリアル宮をエレーラ様式とさえ呼ぶが、これはイタリアのチンクェチェントに同調するものがあり、また当時蔓延していたプラテレスコ装飾への反旗でもあった。この宮は1584年9月13日に完成しているが、その他にアランフェスの都市計画(Aranjuez)、トレドのアルカサールの南西面ファサードAlcázar, Toledo, 1571〜85年)、セビージャのラ・ロンハのプロジェクト(La Lonja, Sevilla, 1538年)、バジャドリッドのカテドラルのプロジェクト(Valladolid, 1580年)も作成している。エレーラの作品はセルリオ*とヴィニョーラ*の影響下にあるが、シンプルで完璧さを追求したことはその代表作エル・エスコリアル宮に明確である。王立建築アカデミーのディレクターという地位にあったため、同時代の建築家たちに多大の影響を与え、エレーラ様式を浸透させた。
三交社刊『建築家人名事典』より


教会堂ヴォールト
2007年10月13日撮影

エル・エスコリアル
El Escorial
(正式名 San Ildefonso de El Escorial)
マドリッドの西約51km、アビラから70Km
人口約7500人

エスコリアル駅に降り立つと、右手の丘に白壁に灰色の屋根、スペインらしくなからぬ清純な家々が目に入る。その切妻屋根が鈍い光を放って緑に包まれた丘を照らし出している。ここはマドリッドの喧騒も、カスティージャの赤茶けた地面もなく、草木におおわれた静粛な聖地の影を落としている。夏はマドリッド市民の避暑地としてにぎわう。エル・エスコリアル宮の礼拝堂キューポラで有名な町だ。
〈エル・エスコリアルへの交通〉
鉄道 マドリッドのアトーチャ駅からチャマルティン経由で1時間に1本の割である。所要時間は約50分。
バス マドリッドのHerranz社(Paseo de Moret,7 地下鉄Moncloa下車)が、平日、日祭日ともに1日4便がある。そのほか、Isac Perol, 10(地下鉄Moncloa下車)発の便もある。

観光ポイント
エル・エスコリアル宮
El Escorial
建設の歴史
一五五七年8月10日、フランス軍をサン・キンティン(San Quintin)の戦で破ったフェリーペ二世は、その勝利を記念し、モニュメントの建設を考えた。8月10日がちょうどサン・ロレンツォ(San Lorenzo・スペイン出身の騎士、殉教者)の日であったため、サン・ロレンツォ奉納の修道院建設を企画、熱心なカトリック信者であったフェリーペ二世は、父カルロス五世(一五一六〜五六年)の墓所、歴史上の霊所を併設、さらには自らも日々の礼拝に都合のいいように宮殿を付属させる一大構築物を計画した。
一五六二年、計画をナポリのファン・バウティスタ・デ・トレード〈Juan Bautista de Toledo,  〜一五六七年〉に当たらせ、翌年から建設がはじまった。しかし、バウティスタは4年後の没し、弟子のファン・デ・エレラ(Juan de Herrera,一五三〇〜九七年)がその偉業をついだ。彼ら2人は、その伝記によると、ともにイタリアで学んだという点をのぞいては違ったタイプの人間であったという。バウティスタは有能な数学者、哲学者、古典研究者であり、ローマのサン・ピエトロ寺院建設のためにミケランジェロのものとで働いたことがあり、一方エレラは、建築家としての修行の記録はない(バジャドリッドの学生であったことは判明している)ばかりか、一五四八年にはフランドルの王警備隊に仕えたり、一五五三年以降はローマ皇帝に従軍したりしていた。
建築的意義
正面一六二メートル、奥行き二〇七メートル、花崗岩の巨塊を積み上げ、一一一〇の窓は無装飾。四隅には56メートルの塔を立て、中央バシリカの九五メートル丸屋根の頂塔ががアクセントをつけている。この構成は、トレドのアルカサル〈後にエレラは建設に助力している〉を連想させるが、バウティスタ自身は、ミラノのオスペダーレ・マッジョーレ(イタリア・ルネッサンス初期の代表作)を範としたようである。このいかにも無表情で、てらいを嫌った一種の機能主義は、スペインのいかなる様式にもあらわれなかったもので、またスペイン建築家のもっとも苦手とするものであった。バウディスタの従弟子エレラは、この反オーナメント装飾の、冷徹で学問的特質からエレラ様式(Estilo hereriano)と呼ばれるようになった。(例えばグレコの子、ホルヘ・マヌエル・テオトコブリによるトレド市庁舎)が、これはカスティーリャ地方の装飾趣向とは相いいれぬものがあった。
現時点からみればカタルーニャのゴシックと同様、カスティージャの機能主義の比類なき典型であり、その巨大な塊からカスティージャのモニュメンタリズムを見出せよう。
実業之日本社刊『スペインの旅』初版本より
74ページ

教会での挙式前に列を作り待つ。

知り合いのエル・エスコリアルの結婚式。マドリッドの金持ちはどうもここに住み、ここで結婚式を挙げるようです。

披露宴はもちろんパティーには生ハムが定番のようです。これを切るのはむろん彼のような専門のプロがやります。

前菜の定番でもあるこのハモンJamónは色々なカテゴリーがあります。これは政府が決めているものですが、若干ポピュラーな命名とは違っています。
大きく分けるとハモン・イベリコ(Jamón Iberico)、ハモン・セラーノ(Jamón Serrano)。前者は豚がイベリコ種で、後者は白豚から作られたもので一般にハモン・セラーノ、あるいはハモン・デ・パイス(Jamón del País)といわれています。
イベリコの中でも特に珍重されているのが、ハモン・デ・ハブーゴJamón de Jabugo。これはアンダルシアの同名の村で作られたもの。確かにこの村に行くとハム屋ばかりです。イベリコ種を大切に育てるばかりか、寝かせるのに気候条件が揃っているのでしょう。Jamón de Bellota(ベジョタ)はドングリを食べたイベリコ豚から作られたものの総称ですが、どんぐりだけ、餌と混ぜたもの、この割合でも随分味は違ってくるようです。
Jamón Serrano(セラーノ)これはそこらのバーにはいれば必ず持っているポピュラーなもので、産地は色々あるのですが、サラマンカ(Salamanca)、テルーエル(Teruel)産はハブーゴなどと比べると驚くほど安いが、それはそれでなかなか味のあるものです。

ハモンの切り方は本当に難しいのですが、うまい人は力を加減して、表面に波が打つような切り方をします。機械で切るところもありますが、まあ上等なものならやはり手で切るのがいいでしょうね。

こちらは明らかに機械で切ったもの。

こちらはBellotaの上等な方です。

これはJabugoですが、上のBellotaには見た目からもかないませんね。

これもカットしたのは手ではありませんね。