ロココ/Rococó

こうしたバロックの成功裡に影をひそめてか、ロココの生彩は萎え、美術の通説ではバロックデカダンスほどにしかとらえられていないのがスペイン・ロココである 。
しかしその時期にはちょうど、スペイン王位継承戦争(1701〜1714年)の結果、ハプスブルグ家とブルボン家の争いがあり、ユトレヒト条約(1713年)によって、これまでのハプスブルグ家に代わってブルボン家のフェリペV世(ルイ14世の孫)がスペイン王として在位するため、スペインとフランスがもっとも接近する時でもある。
ブルボン家の最初の建造物がセゴビア近郊のラ・グランハ(La Granja,1719〜1739年)と呼ばれる王宮で、敷地すら故郷ベルサイユとの類似性が設定条件とされていた。ところが事実は皮肉なもので、ここに働いた建築家の大半はフランス人ではなかった 。
彼らはスペインの伝統的な王宮様式、つまりアルカサールを模して、4隅に塔を建てることから建設は開始され(Teodoro Ardemáns設計、ドイツ人でチュリゲラの弟子)、1727年に建設が再開された時にも王妃の意志をくんでふたりのイタリア人が呼ばれたのである 。

ラ・グランハ宮
1971年10月12日撮影

フランス風庭園。これはスペインらしからぬ風景。

1997年6月撮影

スペインも王制復活以来、ほぼ全ての宮殿が見事に修復されました。どこに行っても手入れが行き届いています。これが最初に行った71年のころはスペインではもう見れないかと思った紅葉できれいでしたが、庭園の他は結構す荒んでいた・・・・。

アルマンデス、テオドロ
Teodoro Ardemáns
生:マドリッド/1664年 没:マドリッド/1726年
 ドイツの建。ドイツ出身の近衛兵の子として生まれる。若年には王室近衛兵として仕えている。科学を修め、数学を学び、アートにひかれ、アントニオ・デ・ペレーダ(Antonio de Pereda, 1608頃〜78年)、クラウディオ・コエーリョ(Claudio Coello, 1624〜93年)のもとで絵画を学んだ。グラナダと(Granada,1689〜91年)、トレドのカテドラル、マドリッドのアルカサール(Alcázar, 1702年)に仕事をしている。1704年以降は王室画家として働くが、「レパントの戦い」(マドリッド司教博蔵、1721年)、「サンタ・バルバラ」(ラサロ・ガルディアーノ博蔵)など、わずかな作品しか残していない。装飾家としてはマドリッドの第三会病院の天井を描き(1683年)ルイス1世(在位1724年)はじめとする王家の葬儀を担当するが(1724年)、まもなくアシスタント、ペドロ・デ・リベーラ*に任せる。気品のあるスピリットを持ち、王室やマドリッド貴族に仕える建築家であり、高官であった。そして『ファン・デ・トリーハが書きトレドとセビージャで実現されたマドリッド都市改造についての宣言と追言』(1719年)と『地球の流動性と地下水の経路』(1724年)を上梓している。1690年頃フェリペ5世(在位1700〜24、24〜46年)のもとにつくられたファン・ゴメス・デ・モーラ*作のマドリッド市庁舎の塔と入口扉を改装、アルカサール内部をフランス宮殿風にも変貌させてもいる。1693年には第三会病院、1722年にはサン・ミジャン教会(San Millán)を設計、リベーラ*によるトレドの橋(Toledo, 首都の西部マンサナーレス河に架かる)の建設のスーパーバイズをしている。主にフェリペ5世の命によってつくられたラ・グランハ宮では主館の神殿(La Granja, 1721〜23年)を担当している。17世紀特有の時代の人であり、アルデマンスは優華なバロックと透明で単純な輪郭、ヴォリューム配置の確かさ、という軍人らしいバイタリティーと数学者の純粋性を反映した作品を残している。
三交社刊『建築家人名事典』より
30ページ


ラ・グランハ La Granja (現在正式名としてはReal Sitio de San Ildefonso)
人口 四六〇〇
セゴビア南東11キロ バス15分
不能王とあだ名されたエンリケ四世が一四五〇年ころ宮殿を建てたのがはじまり。現在のベルサイユ風宮殿が建てられたのは太陽王ルイ十四世の孫フェリーぺ五世が、その故郷をなつかしんだためといわれる(一七三九年)。その一四五ヘクタールの庭園は見事で、数々の噴水があり、特に秋の紅葉期は見事(9時〜14時、夏期は19時30分まで)。
実業之日本社刊『スペインの旅』より
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