王宮/Palacio Real


この時代の最大の建築作品はマドリーの王宮(Palacio Real)である。トレードのアルカサールに擬した、旧ハプスブルグ家の王宮は1734年の火災に大破し、それを機会にフェリペV世はルーブル宮の規模での新宮建設を思い立ち、これまたフランス人ではないトリーノ王国に働くシシリー人、フィリッポ・ユバーラ(Filippo Juvara,1678〜1736年)をマドリーに呼ぶ。
ユバーラは当時トリーノなどに残した作品 で名高い建築家であるが、ユバーラの計画はフェリペとイサベルを驚嘆させた。その計画というのは3つの大パティオと16の小パティオを持つとてつもない規模だったからである。王室との折合いがつかないうちに他界してしまうユバーラの後を継いだ弟子サケッティ(Giovanni Battista Sacchetti,1700〜1764年)はユバーラの4分の1の規模で設計し、建設へと持ってゆくが、それにはどうかするとベルニーニのルーヴル宮案 を想い起こさせるものがあるし、事実イタリア人によって設計されたのだが、明らかにフランス的なものを秘めている。

ユヴァーラ、フィリッポ
Filippo Juvarra/ Juvara
生:Messina[シチリア島]/1678年 没:マドリッド/1736年
 イタリアの建。全ヨーロッパで名声を得たが、主にピエモンテ地方で代表的な作品を残した。カルロ・フォンターナ*の弟子。彫金師としてメッシーナに働いていたが、1703年ローマに移り、フォンターナに学んでいる。1706年にはサン・ルーカ賞を勝ちとっている。1714年メッシーナに戻り、シチリア王ヴィットリオ・アメデオ2世(在位1713〜20年)に王室建築家として任命される。後に地方的伝統の根強い土地柄のトリノに移り、ヨーロッパの伝統的なスタイルとバラエティに富んだ創造力を組み合わせたプロジェクトをつくり力量を示し、数々の作品を残している。サンタ・クリスティーナ教会ファサード(Santa Cristina, 1715年)、スペルガのバシリカ(Superga, トリノ近郊、1717〜31年)、パラッツォ・マダマのファサード、大階段(Madama, 1718〜21年)、そして1729年から33年には多作の時期をむかえ、ヴィナリア・レアーレの城(Vinaria Reale, 1729〜33年)、神学校、ストゥピニジの狩猟のための館(Stupinigi, 1729〜31年)などを残している。1725年にはサン・ピエトロ寺院の建築家、またリスボン(1719年)、マドリッドへ(1735年)フェリッペ5世(在位1700〜24年)によって呼ばれている。マドリッドでは王宮、アランフエス宮(Aranjuez),ラ・グランハ(La Granja)に働いている。マドリッドの王宮では着工するものの翌年この地で客死、その後をサッケッティ*が受け継いでいる。彼の歴史上果たした功績はローマあるいはルネサンス風のクラシシズムとボッロミーニ*のバロックから抜け出して新しい道を開いたことにある。中央式プランや楕円プラン、また明るい色彩などを使い後世に多くの影響を与えている。
三交社刊『建築家人名事典』より
201〜203ページ