第十章 ネオ・クラシシズム

フェリペV世の子フェルナンドVI世とカルロスIII世は、いずれも文人タイプの王で、特にカルロスIII世はナポリという、古いモニュメントや美術館に囲まれて青春期をおくっていることもあり、美術へ愛好を持ち、また素養さえ備えた王で、ゴヤを宮廷画家として抱えた王でもある 。
両王は王立アカデミーの設立 によって、スペインに遅れていた科学・美術の振興を計ろうとするのだが、これが18世紀後半のブルボン家の建てたマドリーの王宮などの建設以上にスペイン建築を左右したのであった。
ところがこのアカデミーは、ゴヤ自身が2度の撃退にあう(1763,1766年)ことが示すように、美術・建築の中央化、なによりも個性の育成を妨げる結果を生み、後の勅命によるアカデミーの審査制による公共建設物の許可制度、そしてアカデミーによる建築家の資格試験制といったものの立法化に、さらにそれらは完璧なものにされていった。
イエズス会は追放され、アカデミーは年間6人の者を選び6年間ローマへ学生を送り、古典建築を学ばせたりもしたのだが、建築家たちにとっては新技術と科学の習得という、ブルボン家の奨励の達成というこのと代償に、バロッキズムを剥奪された。
ベントゥーラ・ロドリーゲス(Ventura Rodríguez,1717〜1785年)は、事実上のこのアカデミーの創立者で、バロックに傾倒していた建築家である。といってもユバーラやサケッティから学んだ18世紀イタリア・バロックで、それをエレラ的な単一構成による空間統一でもって、クラシシズムを達成していった 。
それはサン・フランシスコ・エル・グランデ教会計画(マドリッド、1761年)やパンプローナのカテドラル主正面(1783年)(図版2)にみられるが、彼の主な貢献とはアカデミーでの建築家の育成や、生涯150以上残したといわれる計画案にあるといえる 。