リュイス・ドメネック・イ・モンタネール/Luís Domènech i Montaner/Luís Domènech i Muntaner

モデルニスモは、ドメネク・イ・モンタネール(Lluis Domènech i Montaner,1850〜1923年)のモンタネール・シモン出版社(1881〜1886年)とガウディ(Antoni Gauí i Cornet,1852〜1926年)のビィセンス邸(1883〜1885年)から始まり、セルダの新都市や、新興衛星都市を飾ってゆくが、それは1888年の万国博で決定的な容姿を現わした。

モンタネール・シモン出版社

改装前に撮影、撮影年不詳
ビィセンス邸
1973年3月撮影

サロン部分

エントランス部分
1976年4月撮影
モンタネールはその博覧会で、カフェ=レストランテや国際ホテルなどの鉄骨構造をガラスとレンガによって塞いで、なによりもその平らな壁面構成 に、歴史様式から抜け切った、ヨーロッパ的な理性に基づいた方法によって建てたのである。
彼はその前年“国民建築を求めて ”の論稿を発表しているのだが、それに、まったく新しい時代的な新様式の必要が説かれているのである。
彼の建築は基本的には構造主義的で、合理主義的概念によって生み出されているが、それはすでに触れたカフェ=レストランテや3ヶ月で基礎から内装までやってのけた国際ホテルにも見られるが、後年の彼の代表作である、カタルーニャ音楽堂(Palau de la Música Catalana,1905〜1908年)やサン・パブロ病院(San Pablo,1902〜1910年、第1期)でより明確となる。


現タピアス・ファンデーション(1990年オープンの後2010年に改装をしている)になっている旧モンタネール・イ・シモン出版社のファサードファサード上部はタピエス作の作品(Núvol i Cadira雲と椅子、1990年)が乗っている。


修復されたファサード部分

ファンデーションに改装されたインテリア

タピエス・ファンデーション
タピエス(カタロニア人はタピアスと発音)はバルセローナの旧市街にあるカヌーダ通りCarrer de Canudaに1923年12月3日に生まれている。現在活躍中の大家の中でもアバンギャルドな作風で知られている。タピエスは弁護士の父にならい法学部に入学したものの、4年後の1947年に退学して絵画に専念する。その翌年、アバンギャルドは伝統を昔からもっていたバルセローナを再興するという目的で、詩人ジョアン・ブロサJoan Brosa、ジョアン・ポンスJoan Ponc等と「ダウ・アル・セット」Dau al Set(7人によってあたえられた)を設立するという経歴をもっている。この当時、彼自身はシュールレアリズムに傾倒していたが、グループは50年代ノ」インフォーマリズムでさまざまなアバンギャルドな傾向をバックアップしている。また、1957年にはマドリッドで設立されたインフォーマリズムの集団「エル・パソ」にも参加している。
もうひとつタピエスの生い立ちで彼の作品に影響を与えているのは、17歳から18歳にかけて胸を病み、山間の治療生活を送ったとき書物を通じて「東洋」への興味を深めたことだった。はじめはニーチェショーペンハウエルを通して東洋に接近し、後年にはヨガや禅に興味をもった。
1990年にオープンしたタピエス・ファンデーションはモデルにスタ・リュイス・ドメネク・イ・モンタネールLluis Domenech i Montanerが設計し、彼の孫に当たる同盟のリュイス・ドメネクらが改装した「モンタネール・イ・シモン社」「1880年」の建物。ここではタピエスのパーマネント・コレクション(1階)はもちろん、テンポラリーな展覧会(地階)が開かれるほか、2階にはタピエスの膨大な東洋蔵書が閲覧できる。
TOTO出版「我が街バルセローナ」より
107ページ


1888年万博用に作られたカフェ=レストランテ外観。しかし、実際には工事は間に合わなく、その後博物館に転用されていたが現在は公開されていない。

同階段


音楽堂上部からステージを見下ろす

客席から見上げ

客席天井から下がるステンドグラス

ファサードに取り付くギャラリー

当時の切符売り場
カタルーニャ音楽堂