GATEPAC

インターナショナル・スタイルを求めての決定的な動きは、しかしながら、1930年10月サラゴサで設立されたGATEPACによってもたらされた。
これはガルシア・メルカダルとバルセローナの動きを集約し、すでにコルビュジェのもとで働いたことのあるセルト(Josep Lluis Sert,1902〜)らを中心として結成された名の通り“現代建築発展のためのスペイン芸術家・技術者のグループ ”であった。この建築運動は主にバルセローナで支持を受けセルト、トーレス・クラベ(Josep Torres Clavé,1906〜1939年)、イレスカス(Sixt Yllescas,1903年〜)らを中心に1931年から1937年までの建築雑誌(AC )の発刊に、若い学生たちへ多大な影響を与えた。
このCIAMのスペイン版ともいえるGATEPACの主旨は、彼らの雑誌の第一号の第一頁に次のように表示されているのである。「建築や歴史の法則というのは、幻想や気まぐれの産物ではない。ひとつの時代とひとつの地方のエッセンシャルな性格、つまり社会構造、建設のプロセス、諸材料、経済的要求、精神要請というものを表明するのです。・・・・・・われわれの時代というのは革新の世界的運動によって特色づけられます。・・・・・・」
ガウディの建築を最初に現代的な眼で評価したのも実は彼らなのであった 。作品としてもコルビュジェとの協働のマシア計画(Plà Macià,1933年)、その強い影響下にある最小限低廉集合住宅(Casa Bloc,1932〜1936年)を残し、セルトはムンタネール通りのアパート(イレスカスとの協同、1931年)、結核診療所(トーレス、スビラーナとの協同、1934〜1936年)、アイスプルア(José Manuel de Aizpurúa,1904〜1936年)はサンセバスチャンのヨットクラブ(1930年)を残した。そして1937年ファシズムから逃がれた共和政府はバルセローナへ政府機関を移す。
この時の政府によってパリ万国博へ送られたのがピカソの“ゲルニカ”を収めた赤と白のペンキに塗られ、鉄骨のピロティーに支えられたスペイン館(セルト設計)なのである。そしてちょうどこの時、出されようと準備されていたGATEPACの雑誌の最終号となる1937年6月15日号の最終ページには、ミロによるドラマティックな“アンチ・ファシズムへの印”という握り拳が刷られていたのである。

コルブとの共同によるマシア計画(Torres Clave展より)

カサ・ブロック


バルセロナ結核療養所


1972年6月撮影

同インテリア


Roca宝石店(現在Tous)



以上2011年6月21日撮影

ムンタネール通りのアパート


サンセバスティアンのヨット・クラブ