イゲーラス (2)/Fernando Higueras


“いばらの冠”と呼ばれて
新任した教育者である芸術管理局長F.ベレス=エンピテットは用途変更を決め、70年末日をもって工事をストップさせ、新構想の「国立芸術文化会館」のプログラムに適応させるために、イゲーラスに新しいプロジェクトを依頼するのである。イゲーラスはこのプロジェクトを翌年3月に提出したのだが、なぜか75年の12月になるまで予算がおりなかった。無論、工事はそのままストップしたままとなっていた。
この年UIA(国際建築家連合)の大会がマドリードで開かれ、24のマドリードの代表的な建築が選定されたのだが、この中に未完成ながらこの国立芸術文化会館も含まれたり、その威容から“いあばらの冠”(むろんイエス処刑時のいばらの王冠をもじってのこと)とか“モンクロアのトーチカ”あるいは“ガラスの冠”といったニックネームが付けられ、一般市民からもよく知られるようになった。
また、イゲーラス自身も建築家としてこの間大きく成長し実作品も数々残しているし、国内外のコンペにも精力的に参加して国際的にも名が知られるようになっていた。

担当局長交代のたびに新構想が浮上
「日本では起こり得ないことだろうけれども」とことわりながら、イゲーラスは虚しさを隠し切れない表情で次のように語る。「6000万ペセタの新予算で工事は再着工かと思えば、またまた新しい局長というのが新任、しかもこの局長は通信大学ビルに用途変更しようと言いだし、またまたの設計変更。今回は予算がおりるところまでさえもゆかずに3度目の局長の交替となった。もちろん通信大学ビルとしての設計料もうやむやになったまま、図面保管ケースにこのプロジェクトは埋もれることになったのだ。
そしてイゲーラスにとっては4人目の局長に当たるJ.ペレス=ビジャヌエバ文化財事務局にこの“いばらの冠”を当てようと考えた。つまり4人の局長がそれぞれ4つの違ったプロジェクトを依頼したことになるのだが、それだけではなくその後も大学都市中央図書館、再び通信大学、憲法裁判所、はては首相官邸に使っては、という首相からの依頼まで出る始末だ。
「これで合わせて8回目同じ建物をいじくったことになる」とはなすイゲーラス。首相官邸案ではさすがに1万4000㎡のところに4百万㎡のプログラムが入るわけがなく、新棟をセキュリティーも考えて地下に増築することを考えたが、「なにしろ円形のフレキシブルなプランだから、プログラム変更にもかなり柔軟に対応できたのだ」とイゲーラスは言う。
「ちょうどスペインの衣裳でいえばマントと同じようなものだ」と。

テロやスパイ事件の舞台にも
いかにもスペインという国が「個」を優先させるからといっても、これほど論争の対象となった建物もない。76年の11月に工事再開の音頭で入札がゼネコンのドラガードス・イ・コンストラクシオーネスに28%減でおちた時にも問題が起きた。教育省は勝手に現場監理からイゲーラスとミロをおろしてしまった。この時は世論が見方についてくれ現場監理を続けられるようになったのだが、工事が再開して間もなくゼネコンからストップがかかった。躯体に構造計算のミスがあって工事は続けられないというクレームである。
教育省は「ユーロコンサルタント社」に構造体の検討を依頼してミスがなかったかを確認するのだが、これで工事続行はお流れになってしまった。
それを80年2月には“いばらの冠”を舞台にしてテロ事件もあった。この建物辺りからすぐ近くにある大統領官邸へ手瑠弾が投げ込まれたのだ。また今年2月にはアメリカ大使館館員2人がこの建物を使ってスパイ活動をしていたのが発覚したりしている。こんなわけで、現在でも現場には二人の警官が軽機関銃で警固に当たっているのである。

常に流行の外側に立って
イゲーラスは俗な言い方かもしれないが、異色な建築家としてこの道を歩いてきた。この建物を設計してから既に25年の歳月がたった。現在もう一度同じ仕事が舞い込んだらどういうプロジェクトにするかと尋ねたら、「同じような円形プランのデザインになるだろう」という答えが返ってきた。
「現在では、やれポストモダンだとか、ロッシがどうだとか言われているけれども、学生時代にはミースやアアルトがいた。だが、その時も私は流行の外にいた。建築家というのは、むしろ建てるということを職務とするのであって、表皮を真似し合う職業ではない」と、イゲーラスは穏やかな語り口で話をし続ける。彼は建築雑誌を読まない。「それを開く時には、こういう作品を創ってはいけないのだという戒めのためなのだ」という。彼のこじんまりとした事務所は、建築展の会場のように自作品のパネルと模型でぎっしりと埋められている。現在の彼の仕事はほとんどがコンペである。「これを糧として自分の仕事をより良いものに磨き上げてゆきたい」と目を輝かす。だたスペインでコンペをやっていくというのは大変なことだと話す。「ブルゴスの私立劇場」でイゲーラスは1等入選するのだが、スペインでは誰か動き回る人がいないと、必ずつぶれてしまうのだと嘆く。芸術作品修復センターも、スペインの役所の怠慢から必然的に生まれた事件なのだと彼は言いたげであった。

初心に帰っての工事再開
ある新聞記事がきっかけとなって、昨年の6月18日工事は再開された。しかも当時の芸術作品修復センターという用途に戻り、あたらしいいプログラムがさらに加わって一気に竣工にもっていこうという政府の意向が表明された。新しいプログラムのために3000㎡分地階が拡張されることで対応し、現在、着々と工事が進んでいる。
ただこの14年間の荒廃もひどい。入れられたガラスもいたずらの投石によって割られてしまったし、暖房用の配管は腐ってしまったし、配置されていたエレベーターも運転不可能、パティオに自然に生えた木の幹が40cmほどにも育ってしっかりと根をおろした。建物は塞がっていなかったために、コンクリート打ちの終わっていなかったむき出しの鉄筋は無残な姿を見せている。
「今度、一番楽しいことは・・・・」と水を向けると、「着工当時と同じミロとの協同、同じドラフトマン、ゼネコンも同じ、工事長まで同じ人を呼んで初心に帰って始めることができた。もしプログラムの変更がなければ、今年中には竣工するだろう」と、穏やかながらも嬉しさを隠しきれない表情で語っていたのが、印象的であった。(おわり)

NIKKEI ARCHITECTURE 1985年7月15日号より