ボイーガス/MBM


メリディアーナの集合住宅、Barcelona

Tau学校, Barcelona

Las Ramblasのオフィス・ビル, Barcelona

オリンピック村の集合住宅, Barcelona

ボイーガス・イ・グアルディオラ、オリオール(1925年−) 
Oriol Bohigas i Guardiola
建築家J.M.マルトレイ(1925年− )とイギリス人ダビッド・マッケイ(1933年− )と共同でM.B.M.事務所を開き設計活動に携わるかたわら、評論、著作活動もしている。現在、バルセローナ建築界のボス的存在で、市の文化局長も兼任している。数々の作品を実現し、「モデルニスモ建築」(1968年、邦訳が最近出ました。稲川直樹訳、みすず書房刊、2011年)、「第2共和政の建築」(1970年)などの名著も多い。オリンピック・プロジェクトの全体構想も彼によるところが大きい。

TOTO出版我が街バルセローナ』より
P248

オリオール・ボイーガス
Oriol Bohigas
Spain is Differentというキャッチフレーズがヨーロッパでは合言葉のようになっている。60年代のスペインに観光ブームがやってきて、各国から太陽を求めてこの国を訪れるみて、これはやっぱり違うということになった。列車のタイムテーブルはあるのだが、その通り運行されないからスケジュール通りはもちろん動けない。それにスペインでは外国語が通じないから意思疎通がこれまた困難で、それを抗議したり調整しようとしてもほとんどが無理というもの。かといえばホテルはわずかな料金で王様のように扱ってくれる。ワインやタバコは税金がほとんどかかっていないからべらぼうに安い。いやその闘牛などという、イギリス本国では動物愛護協会が絶対に黙っていない動物残酷物語のようなショーを平気で大衆の面前に晒す。しかもそれどころか、スペイン人たちは闘牛をスペイン精神の象徴的芸術だというのだから、益々わからなくなってくる。こうして日焼けか、ワイン焼けか赤ら顔をしてスペインから本国へ帰った連中は、友人たちを集めてSpain is Differentなのだと語り合うのである。しかもそれにはちょっぴり羨ましさの意味も含まれている。
もちろんSpain is Different from the rest of Europeと言いたいのだ。かの有名な「ピレネーを超すとアフリカなのだ」というフレーズも潜在意識に働いているのだ。一方、スペイン人はこの歴史的ともいえる屈辱に耐えかねている。75年フランコの死後、フアン・カルロスが王座について王制復活となった時、この新国王は「我々はヨーロッパ人なのだ」と就任のあいさつをしていることからも明瞭だ。また政治家たちは、これを拝聴してスペインのEC加盟と理解して、盛んにブリュッセルへ働きかけている。
しかしECに加われば大量に優秀な工業製品が無関税で入ってくるわけで、折角背伸びしながら先進国に追いつこうとしているスペイン工業は、頭打ちにされるのは必然となってくる。だけどそんな犠牲などなんでもない。「我々もヨーロッパ人の一員になりたいのだ」という雰囲気gあるのは否定しがたい事実だろう。
1969年にオリオール・ボイーガスが「バルセローナ派建築」という言葉を使い始めたのはこういった劣等感を如実にあらわしている。というのも、かれは無意識のうちにマドリッド派=スペインに対置させてバルセローナ派=ヨーロッパという図式を描いていたのだ。ボイーガスはリージョナリズムを唱えてきた。とはいえこれはポルトガルのシザのリージョナリズムは国外に向けられているのに対し、ボイーガスの場合は中央マドリッドに向けられているのだ。ただ両者に共通項があるのは、いずれも主都の居住者ではなく、その居住地がポルトやバルセローナという第二都市の建築家であることだ。
バルセローナは歴史的に地中海という足場を利用して広範囲な活動をしてきた。中世のアラブ人の半島侵略にも、いち早くレコンキスタを終えてマルコ・イスパニコという独立国に仕立て、半島他地方よりむしろフランク王国政治的宗教的には結託し、また地中海へと乗り出し交易で視野を広げていった。バルセローナはだからCatalonia is different from the rest of Spainといいたいわけである。
ボイーガスの活動を見てみるとこのことがより明確になってくる。一九五三年に彼が28歳で設立した「グルーポR」は、戦後のフランコ独裁になって生じた国際世界からの隔離状態から建築分野での国外への接近を目的として同世代の代表的建築家を集めている。その後の「ガウディ友の会」の設立に関与したことも言ってみれば、カタルーニャ愛国心からだし、建築士会の古文書保管室の設立には、代々家に伝わる個人的な文献資料を持ち込んでまでの熱の入れようであった。彼の著作活動もこの意味で同調している。『セルダ案とバラキズムの間に』(1963年)では19世紀の理想主義的は発想のセルダ案と現在の都市の混沌とした状況をテーマとし、『モデルニスモ建築』(1968年)ではアール・ヌーヴォー建築への世間の関心の高まりに呼応している。『カタルーニャ建築のポレミック』(1970年)ではダイレクトにカタルーニャ建築のアイデンティティーを問うているし、名著『第二共和制時代のスペイン建築』(1970年)では当時の政治体制に真正面から立ち向かい、ラショナリズムの華麗なスペインでの展開をまとめている。また、1974年には目立った動きのなかった建築ジャーナリズムに目を向けて、Arquitectura bis誌の編集を始める。
ボイーガスの建築実務活動はJ.マルトレルと英国人D.マッケイと組んで、カタルーニャのリージオナリズムをもとに国外の建築に呼応しながらこれまた多彩に繰り広げられている。カタルーニャの伝統的手法と材料を使ったパジャルス通りのアパート(1964年)かた、高層ブロック住宅であるメリディアーナ通りのアパート(1964年)、ニューブルタリズムのボナノバ通りのアパート(1970−73年)、社会問題化している学校建築の回答であるタウ学校(1972−75年)、ラショナリズムのラ・コスタビル(1974−80年)、とテーマもさまざまな作品を残してきた。
さて、フランコの死に、カタルーニャにも地方自治権が蘇った今日では、ボイーガスのリージオナリズムもひとつの意味を失くしてしまった。しかも市議会に社会党政権が成立すると呼び込まれ、ボイーガスは体制の一員に組まれてしまった。そして今、彼のエネルギーは公共空間の建設に向けられている。
現代建築を担う海外の101人』より
鹿島出版会刊 1985年
P31, 32