フェルナンド・イゲーラス/Fernando Higueras

スペイン文化遺産研究所本部(国立芸術文化会館)、Madrid

http://www.fernandohigueras.org/:Fernando Higueras

「イゲーラスの未完の傑作 9度目の正直、竣工にめど」
4半世紀の経緯が物語るスペイン建築事情
スペイン、マドリードの大学都市に完成間際で工事が中断されたまま14年にわたって放置されていた建築が、ようやく昨年6月に工事再開へとこぎ付けた。鬼才フェルナンド・イゲーラスの設計による「国立芸術センター」である。計画の発端までさかのぼれば実に4半世紀を経たこのプロジェクトの紆余屈折あふれる物語を、イゲーラスへの取材を含めて、バルセロナに住む建築家、丹下敏明氏が報告する。(本誌)

バルセロナから車を飛ばして621キロの主都のマドリードへ。マドリードはメセタという標高646メートルの台地にあたるため空気は乾いていて、空はすっきりと青く澄んでいる。ゴヤの描いたあの空がまさにマドリードの典型的なきりっとした爽やかな空の色なのだ。
ところが翌日建築家イゲーラスを訪ねようと彼の事務所へ行く途中の空は、昨日とは打って変わってこの青が燻っている。どうもスモッグではないらしいのだが、パンティーストッキングからのぞいたように赤茶色の膜がたち込んでいていて妙だ。何でもサハラの砂漠で吹きまくった砂嵐が上流気流に乗って、マドリードまでたどり着いたからなのだそうだが、目が痛い。
バルセロナから飛行機ならわずか50分足らずの距離にあるマドリードなのだが、何とも遠い国に来たような気がする。バルセロナでは古来、半島の外へ顔を向けてきたのに、マドリードは半島の中央で居直っているからなのだろうか。どうも田舎臭いというか、一味違うのである。これはヨーロッパ的な堅実な実用主義ではなく、むしろ東洋的な反理論主義からくる洗練さの欠如ということからの臭いかもしれない。ジブラルタル海峡を渡っているとはいえ、サハラの砂漠が舞い込むマドリードなのだ。
イゲーラスの建築を見て歩くと、どうもこの東洋趣味が濃厚にのしてくる。首都マドリードは、工業都市バルセロナに比べると建築の動きは散逸としていて、イゲーラスの建築で全体を展望することはもちろんできない。しかもイゲーラスはこの街にあっても特異な存在なのである。
彼の作品はマドリード建築士会の公刊物である「アルキテクトゥーラ」誌にも出ない。無論バルセロナの建築雑誌「クアデルンス」にも発表されることはない。バルセロナのリカルド・ボフィールがそうであるように、またウィーンのハンス・ホラインがそうであるように、イゲーラスは地元の建築家たちからは相手にされない建築家なのだ。

発端は1961年のコンペ
スペイン教育省が毎年主催する全国芸術年度賞建築部門の1961年のテーマというのが美術、芸術作品を修復するセンタービルであった。ただし計画のプログラム内容や敷地の設定も自由、参加者の提案を待つという、この種のコンペによくある形式のものであった。
この最優秀作品として選ばれたのが円形プランのフェルナンド・イゲーラス案とラファエル・モネオ案であった。イゲーラスは当時31歳で建築家となって2年目、実作もまだひとつもなかったし、小規模コンペに入選の経験はあったとしても、このコンペがまさに新進気鋭の建築家として国内で注目を集めるきっかけをつくったことになる。
イゲーラスの案は、中央に糸杉を並べたパティオを中心にして外側に広がっていく鉢状のダイナミックなプロジェクトで、そのプログラムは事務局にはじまり、絵画、彫刻、タピストリー、古書、考古学発掘品の修復所、殺菌、殺虫消毒所等が含まれていて、ほとんど皆無に等しいスペイン国内での文化財保護補修の中央機関として機能するよう考えられていた。またセンターの敷地設定は、プラードをはじめとする大美術館の集中しているマドリード、そして美術学校、建築学校が隣接する大学都市の一角が提案されていた。

竣工4か月前に突然、中断
それから4年後、教育省芸術管理局の局長ムニエトはイゲーラスに芸術作品保存修復中央営団ビルの建設を実現させるために、この設計を依頼。イゲーラスは当時の事務所協同者アントニオ・ミロとプロジェクトを作成し、これが教育省によって1966年1月22日建築認可がおり実現への第1歩が始まった。
さらに翌年の7月28日には公開入札によって7300万ペセタ(邦貨約3億6500万円)の総予算でゼネコンCOMSAに決定。同年10月16日に契約成立。ちなみに、スペインでの公共建築の入札には自動的に最低入札者に落ちることになっているが、COMSAの場合設計者側からの見積もりの11.21%減を入札額としていた。
また着工後にもプログラム変更と追加で3度の設計変更があり、追加予算が1600万ペセタ(邦貨約8000万円)さらに加わった。ここまでは、まずこれだけのビッグ・プロジェクトではよくある事件なのかもしれない。しかしドラマは実は実質予算を1億ペセタ近くまで使ってしまい、しかも竣工を4カ月前に迫った70年の末に起こった。(つづく)


NIKKEI ARCHITECTURE 1985年7月15日号より