ボフィール/Ricardo Bofill-Taller de Arquitectura

Ricardo Bofillリカルド・ボフィール

リカルド・ボフィールは、バルセロナ建築学校を中退すると、ジュネーヴに移りポリテクニックで建築の勉強を続けている(1960年卒業)。23歳の時ボフィールはバルセロナ市内に端正なファサード、パティオ側の巧妙なプランという興味深いアパートを設計してその早熟さを見せている(コンポジトール・バック通りのアパート、1962‐63年)。1963年にはバルセローナでタジェール・デ・アルキテクトゥーラ(建築工房)を主宰するのだがこのころのタジェール・デ・アルキテクトゥーラは哲学、社会学、美学、文学、映画などの広範な専門家を集めて建築での新たな可能性を見つけようと試みていた。この時代の作品の頂点となったのが「ウォールデン7」だった。この作品の隣のセメント工場に造られた彼のタジェールは、まさしく理想郷ウォールデンを創った理想社会主義者、そして「森の生活−ウォールデン」の著者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの現代版であった。
その後のスペイン経済の低調な時代にボフィールはパリに本拠を構えて、プレキャストを使った時代が始まる。この頂点が南仏モンペリエの「アンティゴーン」であった。さらにパリ時代へ入ると、ボフィールの興味はデザインから政治力、組織力へと移っていく。1960年時代のピッピー的発想の持ち主が、ある意味で社会的な根を張ってしまったといえばそれまでだが、プレキャスト工法をデザインに導入すれば“箱”になり、シカゴの超高層になってしまうのは避けがたい。
一方政治力、組織力からすればオリンピック期の混沌としたバルセロナで、短期間の工期でプログラムもやさしくない空港の増改築を見事にやってのけている。果ては海外で唯一設計を続けているスペインの建築家として、さらに今後を期待すべきであろうか。
世界の建築家581人TOTO出版 1995年
195ページより

ニカラグア通りの集合住宅
レウスの集合住宅 Barrio Gaudí


カフカの城、Sitges, Barcelona近郊

改装後

カスペの休暇用アパート Caspe, Alicante

メルチェルの教会、Andorra


ウォールデン7、Sant Just Desvern, Barcelona近郊


Taller de Arquitectturaのオフィス兼住宅になっている、セメント工場

アンティゴン、モンペジエ


銀座資生堂

張りぼて建築家ボフィール
もう5〜6年も前のことになるのだが、ある雑誌の編集長から、ガウディよりボフィールの方が今の東京では人気がと言われ、まったく困惑してしまったことがある。その頃だったと思うけれど、他の雑誌でもガウディにまさるバルセロ一ナの現代建築家というような表現がこの建築家に使われていたことを想い出す。それを書いたのが、よい仕事を残している人だったので実はますます困惑してしまった。
その困惑の理由というのは、現代建築をかつて、フランク・ロイド・ライトが「写真うつりの良いことが現代建築での名作」の条件だというアイロニーな酷評を下していたのだが、これに似たようなものだった。今日では美しいグラビア写真や気のきいたデザイン図面、文才ある解説といったもの建築の良し悪しをたぶんに決め、評価されているのも否定しがたい事実ではないだろうか。
話はかわるが、テレビや映画をどんどん放送し、これがビデオの出現によってさらに煸られているのは日本ほどではないにしても、ヨーロッパでの最近の現象でもある。映画の良さは映画館へ出かけて行って、お金を払って切符を買い、ニュースやコマーシャルのスポットを見た後で、時には堅すぎるイスなどに煩わせられながら座って、以前なら塩吹き'混布をしやぶりながら、スペインならヒマワリの種ピパをかじりながら涙を流したり、笑いこけたり、あるいは真顔になったりするところがいいのではないだろうか。パジャマ姿で寝っころがって見るのはせいぜいテレビ映画で充分なはずだ。われわれは時間がないといいながら略式で、この儀式と呼ばれるかもしれないようないくつかの行動を生活の中からあまりに省略しすぎているのではないだろうか。
もうひとつにはテレビ放映の映画というのは時間の制約上カットされたり、シネマスコープがテレビ版に再編集されたりするわけだ。もっと深刻なのはコンサートや演劇などの中継放送というやつである。ヨーロッパの場合特にそうなのだが、コンサートのために劇場へ出かけるのはいろいろな目的があり、またいろいろな鑑賞法があるわけで、これをテレビのディレクタ一の眼や耳から通じたいわば「再編成されたコンサート」を見るのは興味を半減させられてしまう。
競馬競輪なども言うに及ばない、カップ・ラーメンに見せかけようとしているうちに生ラ一メンの味を忘れてしまうことが危いといっているのである。建築も実はこういったある種の危機感がないではない,時間がないということで、建築の現場を訪れることがどんどん減っている。一方では雑誌の乱出とあまりにホンモノとまちがわんばかりの編集手腕とが手伝い、誌上での建築の接近とその理解の機会がますます多くなってきている。また建築家は紙上の建築さえつくりつつある。しかし、これはすこぶる危険なことではないだろうか。
ボフィ—ルという建築家の作品はライ卜が評価した種の建築に思えてしかたがない。しかも現在の「テレビでの映画の現象を読み取ったうえでの建築に思えてしかたがないのである。少し話は古くなるが、バリ旧中央市場跡レザールの再開発コンペの結果ボフィ一ルの手に落ちて、実施段階にいってから市民の反対運動に逢って、中断せざるを得なくなったのは有名な話であるが、最近では再びこのパリの真ん中で住居の床面積や開口部面積が法規上の規定に及ばないデザインを提出し、意匠上の問題というだけで、市の条例を更させてまで強引に実施させようとしている。これもパリ市長シラックの娘とボフィールが個人的な友人関係にあるからだという噂があるが、いずれにしろ住民の意見は無視。これに対し住民は反対運動を起こそうとしている。
昨年末、パリで彼の個展が大々的に開かれた時も、実はこういった市民が巨大なブラカードを手にパリの市街を、展覧会場をねり歩いている。現在ではその他、南仏のモンぺジェ—市の再開発計画コンペの実施案も進行中だし、スペインではバレンシア市心を流れるトゥリア河畔の旧市街地再闋発計画も進めているし、パリ近郊の集合住宅「民衆のヴェルサィユ」の第一期入居も完了している。
ところでボフィ一ルの地元であるバルセロ一ナでもウォ—ルデン7の第2期工事の契約が結ばれ、工事開始もそう遠い将来ではないようだ。この契約書というのが、またいかにもボフィ一ルらしいものだという。つまり契約書の文中に、毎週何曜日にはどこどこのレストランに4人分り机を確保すること。工事現場には銀色のヘルメットを置き、これはボフィール以外には使わないこと。毎朝銀の盆に載せたオレンジジュースを届けること。等々が書き込まれている。しかし、このウォールデン7は外壁仕上げのタイルがバラバラと落ち、これの対抗策として、この巨大な山のような集合住宅のぐるりには、まったく痛々しいほど厳重にネットが張りめぐらされているのだ。バルセローナの現代建築中、最も建築訪問者の多い建物が実はウォールデン7のはずなのだが、この有様である。うまくないのはこのタィルとネットばかりでなく、たとえば室内への採光は、半円筒状のバルコニ一に開けられた切口からしか得られないため、住民は苦策の知恵で、このバルコニ一に窓をはめこれを室内化したり、一階に見込まれていた商店がまるで不売だったり、極めて複雑なプランのためエレヴェ一タ一を降りた所に、町内地図よろしくその階の平面図を掲げなくてはならなかったり、外来の訪問客をシャツト・アウトするため、従来開放されていたエントランスの極めて細長い開口部に、まるで不均り合いなドアが付けられなければならないといった失態が多い。
ボフィールの失態(もっとも本人はそんなことはおかまいなしなのだろうが。はウォ一ルデン7だけではない。バルセローナ近郊シッチェスの「カフ力の城」は建設後数年で亀裂が入って廃墟化した。もっともこれは一昨年亀裂にモルタルがつめられ売りに出された。ここのひん曲ったような階段は登るにつれて狭くなっていて、ヴァザロリーの建築版といったところがあって、とても酔ったら家に帰れないというところだ。もっとも「赤い壁」にも3 メートノレばかりの外階段が、どちら側にも手摺なしであった。レゥスの「ガウディ地区」の張り出したバルコニ一は排水穴がどこにもなく、雨が降るとバルコニ一がブールと化し、窓を開けると居間へそれが流れ込んでくる。居間には真ん中に円柱があって角が鋭角なため、三角の家具が見つからなくて住民が怒っている。等々エピソ一ドにはこと欠かない。噂によれば、ボフィ一ルは、常に新聞、テレビ'ラジオ等に登場するように専属の宣伝会社を抱き込んでいるという。ボフィ一ルの人気の秘密はそんなところから始まっているのかもしれない。しかし彼の造型感覚や色彩感覚の锐さを無視することもできないだろう。また彼の計画する作品が常に低コストであることも無視できない。だけれども建築はそれだけではないわけだし、また建築家としての貴任ということを彼はいったいどう考えているのだろうか。これもボフィールに問いたいところだ。

中部建築ジャーナル 1982年10月号
ヨーロッパ建築通信34より