カンデラ/Felíx Candela

80年代の中頃フェルナンド・イゲーラスの事務所を訪ねた頃、彼は仕事らしいものをしていませんでした。噂では仕事はアラブのスポンサーがいて、コンペに参加することが彼の生計を立てていたそうです。そんな彼の事務所で紹介されたのが、何とフェリックス・カンデラでした。日本の学生時代にはキャンデラと表記されていましたが、彼はもともとスペイン人、メキシコへゼネコンをやっていた兄とともに亡命したわけですが、どうも日本ではスペイン語を英語読みしていたのでこう呼ばれていたようです。

1985年イゲーラスの事務所で紹介されたカンデラ。引退し、娘が住むマドリッドへ戻ってきたいということでした。まだ半々程度で、アメリカ人の奥さんはまだメキシコにいたのですが、結局家族全員最終的には故郷に戻ったようです。

1985年4月10日撮影
カンデラの展覧会がこの年、マドリッドでありました

]
Iglesia de Nuestra Señora de Guadalupe en Madrid, España, 1963


RCの打ち放しで、施工がずさんですね。何とか補修をしておかないと大問題になりますね。
以上に2点2011年7月3日撮影

亡命建築家の帰国−フェリックス・カンデラの場合−
スペイン戦争の前後を通じてスペインには様々な文化人を輩出したことは周知の通りである。ピカソ、ミロ、アルベルティ、マチャード、ロルカ、セルト・・・といった文人、芸術家は日本でもよく知られたいるところだ。
これらの人々の軌道をみてみるといくつかのタイプの分けることができる。つまり、亡命し、その国で名を成す、あるいは非業の死を亡命、または戦争中に遂げる。もちろん国内に残って大成したケースもある。
たとえば、この稿ですでに書いたトーレス・クラベという建築家は参戦して、敗軍側に従軍したばっかりについ最近まで忘れられていた。その友人のホセ・ルイス・セルトはアメリカに渡ってハーバード大学の都市計画科長にまでなる。
そして、その亡命グループにもふたつのタイプがある。ひとつは先進国といわれる国へ亡命したグループ、そうでない国へ亡命したグループである。前者のグループについては才能と運さえあればかなりの成功を収めることも比較的簡単(もっともこれは第三者的な見方なのだが)だったかもしれないが、後者の場合、更に困難な状況に置かれたいたのではないか。たとえばアルゼンチンへ亡命したアントニオ・ボネット、ロシアのルイス・カサス、メキシコのフェリックス・カンデラといった建築家たちのことである。
後進国亡命者であるフェリックス・カンデラはメキシコのエンジニアとしてよく知られている。日本ではなぜか英語風の発音でキャンデラと呼ばれているから、この呼び方で記憶されている方も多いかもしれない。実は彼の出身はマドリッドで、もともとスペイン国籍だった。彼はフランコ軍に敗れた共和政府軍に軍の技術将校として加わり、敗戦後はフランスの強制収容所に入れられ、その後メキシコへと移住した。
79年には再びマドリッドへ戻って、以降マドリッドの建築事務所の技術コンサルタントとして活躍中。現在、75歳という高齢にもかかわらず活発な活動をしている。この彼にこのたび新設されたアントニオ・カムーニャス建築賞が与えられた。
以下は、その記念講演の一部であるが、膜構造の先駆者としてのカンデラの人となりがよくわかっておもしろい。
この受賞を心の底から喜んでお受けいたします。と申しますのは単に私の疑わしい功績への認知というだけではなく、長年にわたって遠のかざるを得なかったこの国で、賞を受けるということに感激しているのです。生まれ故郷がもたらしてくれる恩恵というものから根を切られ、放浪を余儀なくされたものにとって、そこに留まった者からの尊敬と敬愛の証としての賞ですから、これ以上の嬉しいことはありません。言ってみれば人生の終わりであたかも新たに生まれ変わったようなものです。私は道程にたちはだかった困難を嘆くというわけではありません。私の歩んだ道は他とのコミュニケーションも家族の支援もないという、普通の歩みと違っていても、それほど難しいものではありませんでしたし、普通一般の学習過程では得られることのできない能力を身につけるための刺激すらむしろ得られました。またメキシコへ亡命した人々は幸運だったというべきでしょうか。スペインを兄弟国として、我々を両手をひろげて迎えてくれました。しかも、あの頃は自由の雰囲気が蔓延し、すべてが可能な時期でありました。法規的にも厳しく、もっと組織立った国へ渡っていたとしたら私のやったことはできなかったでしょう。
以上のような状況がなければ、私のささやかな国際的名声も得られなかっただろうと思います。私のタッチしたことが比較的、人が手をつけなかった分野だったということありまして、それほどの努力も必要ではありませんでした。しかもそのためにメキシコやスペインという国が、建築での世界的舞台として登場したことを喜ばしいことと思っています。また、多くの国々を訪問する機会も得ました。同じようにスペインに戻って旧交を温めることができ、長い年月の間孤立状況を感じることもありませんでした。
私のプロフェッショナルとしての障害は奇妙な両義性によって特徴づけられます。私が建築家として名乗りをあげられるのは、あのロス・エストゥデイオス通りにあった旧学校で、建築家のタイトルを得ているということだけでしょうか。それも特に優れた成績でもなく、かといって私のやる気のないにも関わらず、それほど難しいということでもありませんでした。メキシコに着いてからはドローイングが上手だったこともありまして、職場を見つけるのもさほど難しいことではありませんでした。そして、初心者の誰もが歩む、ドラフトマン、計画者、小規模な現場の整理というようなこともしました。つまり、メキシコでの最初の10年間は生計を立てていくこと、手に職をつけるためい建築家をしていましたが、その時期の私の仕事には何ら特別興味のあるものはございません。
私には芸術的才能というものがありませんから、学生時代から、むしろ技術的なテーマに興味を覚えておりました。そのうちでもすでにドイツやフランスで使われ始めていた膜構造、あるいはR.C.の薄い構造体というようなものに特に興味を惹かれました。トロハはサルスエラの競馬場とかレコレートスの球技場(注:これはバスク地方での国技である球技の会場で、スペイン戦争でフランコ軍から狙われ空襲にあい、シリンダーに穴があきましたが、崩れなかったそうですが、その後解体されてしまいましたが、トロハの名作に違いありません)そのなどをやっていました。なかでも特にレコレートスの球技場は、シリンダー状のヴォールトで、ただごとではない大きなものでした。私は嫉妬深いものですから、こういった構造物の解析計算をとりまいている神秘のベールを剥いでやろうとしたものです。しかし、この計算の方法はいかにも複雑でした。ドイツの専門家たちが言っていたように、私にも他の多くのひとたちにも、それは克服しがたい障害物でした。何しろ細心の注意を払って張りめぐらされてた深い煙のカーテンが、その神秘の分野への侵入者の入場を拒み、シリンダー・ヴォールトのデザインを限定された人々のためのだけの秘密としておくために考え抜かれていたものですから、この種の構造体は20年近くもその後使われず、発展することもありませんでした。しかし、この巧妙なからくり自体が私にとっては成功の鍵となったのです。
メキシコに行ってから一年ほどたってからでしょうか。私のこの以前からの興味を思い出しまして、このテーマについて出版されたすべての出版物を勉強し始めました。この頃はすでに、たとえそれが著名な研究家が書いた論文であっても、それを批判するだけの能力を備えるようになっておりました。そして、これまでの小規模な、しかも従来の建設プロセスで作られる構造を解析するためにはあまり素晴らし方法であることにも気がつき始めました。こうして私は自分自身の限界も承知し、あの解析計算は達成不可能なことであると諦めてしまい、幾人かの作者が出版していたもっとも簡単で、しかも理に合った計算法というものに目を向けることにしました。これが巨大な壁にあった亀裂に入り込んだようなものでした。私の能力と才能に一致し、私が建てたいと思っていたものを分析するためのプロセスを発展させる自由をこれは与えてくれました。いってみれば誰にも手の届くものだったわけです。あの科学的論文にはいかなる構造的問題も、そのスケールが決定的な影響を与えるということが書かれていなかったのです。スケールと覆われるスパンが大きくなるに従って、小規模構造では二次的でほとんど考慮しなくてもよいいくつかの影響が問題として浮かび上がってきて、エラスシティーの細かな、そして複雑な計算が要求されてくるのです。しかし、この構造上の起こりうる性状を理論の上では考えることができても、実際にはどこまで必要でどこまで考えなくていいのかということの判断基準については誰も教えてくれません。幸運にも私の初期の試みはスケールもさほど大きなものではなかったので、私の判断自体を頼りにしながら進むということができ、それぞれの構造タイプのために妥当な大きさの限界ということを決めていくことができました。
これらの初歩的な発見を書いた論文はこのテーマの神秘のベールを剥いだわけです。そして、次に来たのは闘争、執念、そして孤独でした。あるアメリカのエンジニアリング事務所と何年にもわたってこの状態が続きました。まず、彼らに恨みをかわれたことが私には忘れられない満足感を与えてくれました。「問題にならない」とか「哀れなチャーノ(メキシコ人を卑下した呼び方)が大胆にもアメリカ合衆国を征服しようとしている。」とかいわれたものです。(つづく)


ヨーロッパ建築通信 No. 55 
中部建築ジャーナル1985年8月号