スペインの現代建築

現代建築とGATEPAC スペインの現代建築を語るには合理主義時代にまで遡ることが必要になってくる。1929年のバルセローナ万博で見せられたミースのあの小さいが近代建築のエッセンスのような作品は当時国内では全くというほど理解されなかった。 但し、バルセローナ館建設の前年の5月にコルビュジェマドリッドで2日にわたってレクチャーをしていて、その後パリへの帰途、セルトはバルセローナに急遽呼んでレクチャーをしてもらっていることからも、一部の若い建築家たちに近代建築の新しい動きを学びたいという願望があったのは容易に想像できる。
 といってもヨーロッパのアバンギャルドな建築運動がスペインの建築家たちの間で動き出したのは、やっと1930年に入ってからのことだった。まず、1930年9月には北部のサン・セバスティアンで「現代建築、芸術」の展覧会が開かれている。この時の主だったメンバーが、翌月の26日にガルシア・メルカダル(Fernando García Mercadal、1896年〜1985年)の故郷であるサラゴザに集い、GATEPAC(現代建築発展のためのスペインの建築家、技術者集団の略)設立のための会議を持っている。このメンバーはマドリッドからはローマ賞の奨学金を手にしてヨーロッパを遊学し、当時の急進的なヨーロッパの建築家たちに教えを乞うたガルシア・メルカダルをはじめ、カルボ・デ・アスコイティア(Víctor Calvo de Azcoitia)、ロペス・デルガード(López Delgado、1902年〜 )、バスク地方からマヌエル・デ・アイスプルア(Manuel de Aizpurúa、1904〜1936年)、ルイス・バジェホ(Luis Ballejo、1903年〜 )、バルセローナからはセルト(Josep Lluis Sert、 1902〜1983年)、イジェスカス(Sixt Yllescas,1903〜 )、トーレス・クラベ(Josep Torres Clave、1906〜1939年)らが出席していた。
 GATEPACはCIAMのスペイン版ということができるのだが、スペイン国内の3つの支部で組織的に建築運動を展開しようと組織されたものだ。
彼らの公刊物ともいえる雑誌ACがバルセローナで出されていたが、この第1号の第1頁には彼らの運動主旨として次のような声明文が発表されている。「建築や歴史の法則というのは、幻想や気まぐれの産物ではない。ひとつの時代とひとつの地方のエッセンシャルな性格、つまり社会の構造、建設のプロセス、諸材料、経済的、精神的な要求というものを表明するものです。(中略)我々の時代というのは革新の世界的ムーヴメントによって特色付けられています。・・・・・」

共和制政府の建築
 しかも彼らの活動の場所をつくったのは、プリモ=デ=リベーラの軍事独裁政権が倒れ、共和制政府(1931年4月〜39年3月)成立という、政治的な転換から発生したという、建築でよくありうる政治的背景を明確に孕んでいた。左派の共和主義者であるアサーニャ首相は、ドイツのワイマール憲法を模範としてつくられた民主主義的な憲法を成立させ、教会と国家権力の分離、カタルーニャ自治承認などスペイン独自の問題点をもクリアしていた。
 第二共和制政府はあのスペイン市民戦争(1936年7月〜39年3月30日)のなかの混乱の中で、新生政府の活力にバック・アップされて斬新な作品を残していった。特にその焦点は中央のマドリッドが戦火の中にあったこともあり、また、カタルーニャ自治権の確立という雰囲気的な状況が重なり、ヨーロッパではすでに恐慌が吹きすさび、巨匠の時代が場所を剥奪されて終わろうとするこの時代で、地方自治を公認されたカタルーニャでは、活気に満ちた若い建築家たちが新しいアイディアで作品を残す最大のチャンスを得ていた。新生政府政府の気運に合った、斬新で気迫のある完成度の高い作品を彼らは残していた。これらのうちにはル・コルビュジェのマシア案の建築的対応であるカサ・ブロック、ムンタネール通りのアパート、結核診療所、共和制政府の最後の事業であり、ピカソゲルニカで知られるパリ万博のスペイン館などがある。

スペイン戦争
 スペイン戦争での共和政府の政治的敗北によってこの状況が保守、反地方主義として確立すると、例えば、セルトはフランス経由でアメリカへ、カンデラ(Felix Candela、1910年〜1996年)はメキシコ、アントニオ・ボネット(Antonio Bonet, 1913年〜1989年)はアルゼンチン、ロドリーゲス・アリアスはチリ、ベルガミンはベネズエラスアソはフランスへと亡命し、数々の果敢な建築家たちをスペインは無くしてしまった。
 この時期に政治的にもフランコの清貧的な性格を前面に押し出し、しかも戦争からの復興が目指されて、活動の場が極端に制限されていった。42年7月には条例がでて、前政府のもとで実験的な作品を残してきた亡命建築家をはじめとする100人以上の建築家たちのタイトルが奪われてしまった。文化的な鎖国状態がここで完全に生まれてしまった。
最近、唯一フランコ時代の政策下で建設されたもので評価されはじめてきているのが、一連の農業開拓村での集合住宅であるが、一般的には日本の帝冠様式に呼応するようなモニュメンタリズムに陥った形式主義的な作品を残していたった。

GURUPO R
 この沈黙を破ったのが1950年にスペイン戦争時代に教育を受けたコデルク(J. Antonio Coderch、 1913〜1984年)、ソストレス(Josep Maria Sostres、 1915〜1987年)、モラガス(Antoni de Moragas,1913〜1988年)といった世代の人たちを始め、更にもっと若いボイーガスらのバルセローナの建築家たちが中心になって、GRUPO R(グルーポ・エレ、ラショナリストのRからきている)が発足した。これは鎖国状態にあったスペインの現代建築に新たな息吹を吹き込む役を果たしたのだが、実際にこの沈黙を破ることができたのは、コデルク、ソストレスらが力を付け、国際社会で知られるようになった60年代になってからのことであった。その姿勢は一口にいえば伝統を踏まえた上で、新たな合理主義建築を再度模索していくというのが彼らの手段であった。
 この時期のマドリッドではバルセローナのような運動としては起こらなかったものの、アレハンドロ・デ・ラ・ソタ(Alejandro de la Sota, 1913年〜1996年)、サエンス・デ・オイサ(Saénz de Oiza、 1919年〜2000年)、フェルナンデス・アルバ(Fernández Alba、1927年〜 )、カーノ・ラッソ(Cano Lasso、1920年〜1996年)といった単発的な努力が重ねられ、60年代にはフェルナンド・イゲーラス(Fernando Higueras、1930年〜2008年)らが活躍した。

民主化
 ドル・ショック、オイル・ショックの悪影響がスペインの建築界で始まったのがやっと70年代の末、特に80年に入ってからだった。この時代は政治的な解放感を感じていながらも、経済的な制約にコンテクスチュアリズム、社会学の影響下に建築の新たな方向性の模索が続けられていながらも、実作のチャンスの少ない時期だった。アルド・ロッシの「都市の建築」がスペインで訳され、ヴェンチュリーが読まれ、アンビルドが生まれていった。ボフィール(Ricardo Bofill、1939年生まれ)は次々とポレミックな作品を発表していった。現在、それぞれが独立して活躍している、STUDIO PER(Oscar Tusquets、Pep Bonet、Cristian Cirici、Luis Clotet)、現在スペインの代表的作家となっているラファエル・モネオ(Rafael Moneo、1937年生まれ)、バスク地方の歴史・文化の背景を背負ったガンチェギ(Luis Peña Ganchegui、1926年〜2009年)、マドリッドコスモポリタン的な作家コラーレス+バスケス・モレスン(Corrales、1921年〜2010年+Vázquez Molezún、1922年〜1993年)、大御所となったサエンス・デ・オイサ、セビージャでのラッツ、テンデンツァを推進したクルス+オルティス(Antonio Cruz、1948年生まれ+Antonio Ortiz、1947年生まれ)新アブストラクションのリナサローソ+ガライ(José Ignacio Linazarroso+Miguel Garay)、集合住宅に方向性を求めたデ・ラス・カサス兄弟(Manuel、Ignacio de las Casas)マドッリドで文化的な活動をしようとしたフンケーラ+ピタ・ペレス(Junquera+Pérez)、石の産地で現代建築を石造で試みたセサール・ポルテーラ(César Portela、1937年生まれ)、同じくネオ・リージオナリズムのヤゴ・ボネット(Yago Bonet、1936年生まれ)、オピニオン・リーダーであるボイーガスの率いるMBM事務所(Josep Martorell、1925年生まれ+Oriol Bohigas、1925年生まれ+David Mackey、1933年生まれ)、レアリズムのガルセス+ソリア(Jordi Garcés、1945年生まれ+Enric Soria)・・・・・・・・。  

オリンピック、万博
 そして開催されたのがバルセローナの92年オリンピック、セビージャの万博であった。
これはまさしく低迷するスペインの建築界で最大のチャンスであったはずだ。そしてこの収穫は以下の代表的、あるいは非代表的な建築家たちの仕事に近将来、確実な成果となってあらわれてくるだろう。

参考文献抄
Carlos Flores著、Arquitectura Española Contemporánea、Aguilar S.A.、1961年
Oriol Bohigas著、Arquitectura Española de la Segunda República、Tusquets Editor、1970年
丹下敏明著、スペイン建築史、相模書房、1979年
Eduardo Bru、José Luis Mateo共著、Arquitectura españla contemporánea、 Editorial Gustavo Gili S.A.、1984年
Europaiaカタログ、Architecture Espagnole、MOPU、1985年 
Antón Capitel著、Arquitectura Española años 50− años 80、MOPU、1986年
Josep Maria Montaner著、 Arquitectures per al nou segle、 Col・legi d‘Arquitectes de Catalunya、 1994年
Juan Daniel Fullaondo, María Teresa Muños共著、Historia de la arquitectura española Tomo I、Kain Editorial、1994年
Llàtzer Moix著、La Ciudad de los arquitectos、Editorial Anagrama、 1994年

TOTO出版
世界の建築家581人192〜193より

http://www.residencia.csic.es/lecorbusier/imagenes/seccion02.htm
ここにメルカダルの1928年、ル・コルビュジェとの出会いが記録されています。
これはまさしくスペイン現代建築を方向つけたトピックスです。
メルカダルは4年間の奨学金を得て、半年間ずつ点々と事務所を渡り歩きました。これもスペイン建築にもたらした貢献は計り知れないものがあるでしょう。