1/7 学生時代のプロジェクトと作品

このように豊かな実務経験の持ち主であったガウディは当然のこと、設計の科目では優れた成績だった。初年度は"特優"、2年、3年は"優"であった。ほかの科目が全て"可"であったから良い成績であった。ただしこの他例外に"建築材料の応用"でやはり"優"をとっている。これで気付くことはガウディの議論嫌い、また、実践主義であろう。果たしてこの辺りも家系の職人気質を受け継いでのことかもしれない。事実彼は生涯一冊の本も出さなかったし、一冊の作品集も出さなかったし、教壇にも立たず、市井建築家として生涯終わっている。
さてその学生時代のプロジェクトであるが、ほとんどのガウディのオリジナル図面が1936年のアナーキストの教会焼き討ちにあって失われているにもかかわらず、これらは幸いにもその多くが建築学校のアーカイヴとして残されていたため現存している。まずその表現力の卓越した手腕に驚かされるが、ヴィオレ・ル・ドゥックへの傾倒からの影響であろうか、新建材の起用、どうしても拭いきれないゴシック的表現、そして西洋での常識ではあるがシンメトリックコンポジション、単純な平面プラン、明快な構造、これに引き換え細緻なディテールが目に付く。
ガウディは、既にこのころから建築とその背後にあるものに注意を払っていたといわれるが、設計の課題に墓地の門がテーマとして出題されたとき、彼は当然その状況描写として浮かび上がる葬儀の列をパースに描き込んだのだった。墓地の入り口の大通りに一台の車が止まり、死者の棺が運び出されようとしていて、背後には墓地つきものの糸杉がそびえ、蒼白の空には灰色の雲が浮かんでいるというものである。このリアリズムに教授陣は顔をくもらせ、ガウディを非難さえした。しかし彼にとっては明確な状況を設定せずには設計ができないということであったのだろう。

1874-1975年のクラスでの課題として出た墓地のエントランス。ガウディが落第点を付けられるが、その後の追試で合格。審査は1875年の9月30日に行われ、採点は”特優”だった。
スタイルはロマネスク風。彫像が正面にも無数に張り付くがヴォールト内にまでも入念に描きこまれている。
中央に建つ門扉を受ける柱はカテルーニャのお祭りでカスタジェットと言われる人柱らしい、屋根のは割り石で押えられているようだが、勾配は異常に緩い、建築家になってからのガウディとは正反対である。門扉はブレースが付いているもののやたらと幅がある。中央頂部には判別できない聖像ともなんともつかない彫刻が乗っている。
このドローイングは焼き討ちにあって現存しないのですが、Rafollsが伝記を書くときに撮影している。