サン・パウ・デル・カンプ Sant Pau del Camp Part 2


このプランで見る限り正面左手には更にチャペルのようなものがあったらしい。絵葉書ではそれが確認できないが、正面上部も現在のものとは若干違うのでやはり絵葉書の頃まではあったのかもしれない。

Puig i Cadafalchによるアクソメ

スペイン・ロマネスクは二派から形成されていて、一つは聖ヤコブの遺体が発見されたサンティアゴ・で・コンポステーラへと導かれるロマネスクの道と、それからの派生であるカスティージャ派、そして他方がカタロニア派である。カタロニア派・ロマネスクの初期はカロリン朝とアラブの影響を多分に備え、その延長上に独自の形式を生んでいる。たとえば、サン・ペラ・デ・レス・ブエリャス(San Pere de les Puellas, 945年)サンタ・マリア・デ・アマール(Santa Maria de Amar, 941年)、サン・ペラ・デ・ローダ(San Pere de Roda,1022年)、サン・ミケェル・デ・クシャ(Sant Miguel de Cuixá)がそれである。1000年を境にしてカタロニアの発展は目覚しく、イタリアの諸都市と関係し、地中海貿易を通してロンバルディアに興った新技術を吸収し、わずかな時期に広がっていった。サンタ・マリア・デ・ロサス(Sant Maria de Roses, 10222年)、サン・ビセンテ・デ・カルドーナ(San Vicente de Cardona)あるいはピレネー山脈に広がっている教会建築(ふつう平石積石造、木造小屋組)との合体から、タウイ(Taull)のサン・クレメンテ(San Clemente)サンタ・マリア(Santa Maria)を生んだ。ともに特徴的で鐘塔を備えているのが一般的で、現在アンドラ公爵領国にあるサンタ・コロマ(Santa Coloma)のそれは円筒形である。リポイ(Ripoll,ジローナ県)のサンタ・マリア・修道院(Santa Maria)は11世紀に始まり、ロンバルディア様式導入期に再建された(1032年)カタロニア・ロマネスクの重要な作品の一つである。カタロニアの南部に様式が流布すると、それらはよりロンバルディアの特色を強く示し、セオ・デ・ウルジェル(Seo de Urgell)のカテドラルやサン・パウ・デル・カンポが、その興味深い回廊とともに建てられた。12世紀の末、シトー派の流布とともに様式は衰え、13世紀にはゴシック過渡期となり(ポブレ修道院サンタス・クレウス(Santes Creusタラゴナ県)、タラゴナのカテドラルとレイダのカテドラルに最初のゴシックエレメントが使われるにいたり、姿を消した。カタロニアは当時、相当な版図を治めピレネーを超えていたばかりか、10世紀には多くの修道院がフランスの傘下に入っていたし、次の世紀には重要事項決定がフランスの司教の参加によって行われていた。このことはカタロニアへの多くの影響を物語っているが、この隣接しているラングドックはカタロニアと共にロンバルディアの影響下にあって、新技術や工法は地中海貿易でより密接であったバルセロナから逆にラングドックへ流れたことは間違いないようだ。つまりここにロマネスク様式がスペイン・カタロニアからフランス南部へと広がった証がある。

サン・ペラ・デ・ローダス San Pere de Rodes


サン・ペレ・デ・ロー ダス修道院 Monestier de San Pere de Rodes
建設年代は内陣が958年、会堂が1022年。交差部をもつ3身廊構成で.中央のアブスには周歩廊がつきクリプトが地下につくという、カロリンク朝独特の平面を思い起こさせる。内陣の周壁はモサラベ期、他は南仏ロセジョン地方Roussillonの会堂と起源を同じくするロンバルディア・ロマネスクをおおく残している。駐車場からしばらく歩いていく間の偉容からもこの修道院がいかに権力があつたかということが窺われるというものだ。入場券売り場を抜けると見学には三つの人口がある。左側には教会堂、右手には発掘現場があり、その上の橋を波って入ると12〜13世紀の回廊(ただし2階は14世紀)に出る。内部はつながっているので左の入口から入るのがいいだろう。右端の入口からはテラス状になったプラットフオームに出られる。ここからは眼下にポルト・デ・ラ・セルバの村Port de la Servaが紺碧の地中海に映え、左手はフランス、いやかってのスペイン辺境領が一望できる。現在、現代建築家として活躍しているエリアス・トーレスデ・ラ・ペーニャらの手で修復工事が進められていて、こんなところにも現代が頭をもたげている。
ポルト・デ・ラ・セルバから山上への分け道にはこのあたり一帯にかなりの数が集まっているドルメンがあり(道路にDolmen de Taula dels Lladres, Dolmen de les Moresのの標識がある)、修道院建設以前にすでにここがなんらかの聖地であつたという言う説もある。イベリア半島を人陸から切り離すピレネ—山脈はここから始まるわけだが、このこととなんらかの関係があるのかもしれない。


TOTO出版”我が街バルセローナ”より
18ページ

追記
実際修道院の起源については2説あるが、その1説には610年ローマの政治不安定から、サン・ピエトロ(サン・ペラはカタルーニャ語での呼称)の頭部、右手などの聖体を東ゴードの略奪から守ろうとした僧侶たちが探しあぐねた結果この地を選び、ここで見つかった洞窟の中に隠し、これがこの修道院建立の起源となたと言われる。なぜこの土地を選んだかは、なぜここにドルメンが集中したかということとも関連があるかもしれない。
いずれにしろ眺望もよし、風通しも適当で気持ちのいい土地であることには違いない。

Puig i Cadafalchによる作図