噴水計画と大学講堂計画

病院計画は学外で作業したということで、校則違反で落第点をもらうが、レウスの日誌には2度この課題のことに触れて、さらに別な部分には以下のメモが残されている。

Lariboisière 17.236 Fr. Tiene 606
Nuevo Hospital Dieu sasará de 29.888 Fr.
Blackburn, Manchester 4,225 Fr. 8 camas cada tiene 140
Boston Free Hospital
これは病院建築の参考書を見てとったメモであろうか、外国の病院名と、なぜかそこで使われた建設コストが書かれている。

カタルーニャ広場の噴水
1877年6月30日審査

大学講堂
1878年1月4日審査 可
このプロジェクトが最後になる。この日、1月4日に審査があったのだが、過半数で及第、というぎりぎりだった、反対票を入れた一人はドメネック・イ・モンタネールであった。このせいか、ドメネク・イ・モンタネールとは生涯平行線を保った。
Jean-François-Thérèse Chalgrin(1739-1818年)によるパリの議事堂(1804年)あるいはJacques Gondoin (1737-1818年)にうよる医学部(1769-1796年)を参考にしていたことがその理由の一つになっている。