モデルニスモ Part 44 ジュジョール II

こういったことからしばしばその生活方法と創造活動の方法をガウディのそれと重ねられる。ガウディは終生結婚をしなかったが,彼もガウディの死の翌年48歳まで独身を通した。ガウディはその劇的な死をひきあいに出されるが,彼の死もそれに等しい。スペイン戦争の長い暗黒の時期に健康を害し,苦痛に耐えたが,慢性的な持病を持つようになり,1949年の5月1日朝,突然その苦痛から開放されたジュジョールは,長く行くことのできなかったミサに参列する喜びを得たのも束の間,その曰の午後世を去った。「私の身体が弱くなるにつれ,私の精神はより自由に,より素晴しくなるのを感じる」 (ガウディ)
建築学校を終え教職に就くと同時に,彼はアントニ・マリア・ガリサ(Antoni María Gallisà, 1861〜1903年),あるいはジョセップ・フォント・イ・グマ(Josep Font i Guma, 1859〜1922年),そしてガウディのもとに働くが,それはしばしば協同者以上の才を見せてくれる。例えばガリサのオルフェオ,カタラは明らかにジュジョールのものであるし,グマのバルセロナ学術協会はグマ自身のものとは明らかに異質なものである。ガウディとの協同においては,グエル公園カサ・ミラカサ・バトリョ,そしてマジョルカ島パルマ大聖堂の修復と働いたことが記録されている。彼自身の作品では次のようなものがある。

ガウディに協力したジュジョールの作品

グエイ公園ベンチ

カサ・バトリョ ファサード

ラ・ペドレラ 居室天井

マジョルカのカテドラル修復計画 僧席の装飾