ガウディの謎 Part 3

3 ボデーガ・デ・ガラーフの評価
ではボデーガ・デ・ガラ一フはこれまでどう評価されてきたのか。「個性的で同時に風景の素晴しさに順応した作品」(Ràflos, 1926),「彼の最高の作は疑いなくボデーガである。表情溢れる見事な統一とすべてのエレメントのオーガニックな統合によって,あるいはその信じられないまでの現代性によって驚かされる」(Bohigas, 1968年)、「先の建物の壁と屋根は構造的に純粋で個性的なヴォールトに大胆に結託してひとつのプロックとして扱われている」(M.I. 1954年)、「ガラーフのボデ一ガ・デ・グエイは師の作品としてたびたび解釈されてきた。事実ガウディ風の手法による大胆な解决法,構造的詳細,そして構成によってそうである価値を備えている」(Martinell, 1967年)
一様にボデ一ガを称えているうちでマルティネイが,これはガウディの作ではないか,と仄めかしているのは興味深い。マドリッドの建築家協会の公刊誌"Arquitectura“誌に書かれたAmás Salvadorの「ガウディの回想」(IX巻, 1927年, I6頁)には「われわれの非常に熱心な(ガウディとの)会見はガラーフへの訪問のすすめとともに終わった。その時にはそれは果たすことはできなかったが,後で実現できた。……ガラーフでの作品は私を刺激させた。ガウディのすべての作品がそうであるように……」とある。

4  ボデ一ガとベレンゲール
ではいったい,ボデーガとベレンゲールはどこで結びついているのであろうか。それは一冊の出版物,ラフォルスの"Gaudí”である。それはガウディについて最初に書かれた本であり,また著者自らサグラダ・ファミリア教会で文書保管役を務め、建築家としてよりも建築、美術の評論家としての経歴からも絶大な信頼が置ける。しかもこの本はガウディの図面,スケッチ, 写真をはじめほとんどすべてガウディと関係のある物が焼失してしまった後,最も信頼できるドキュメントとしても珍重されてきた。現在のサグラダ・ファミリア教会の受難の門の建設すらも多くをこの本によっている。オリジナルは焼けてしまったが、この本を作るのに撮影した写真のネガが残っていたのだ。
ラフォルスの" Gaudí”には偉大なる弟子としてベレンゲールに一章が捧げられ,多すぎると思われるほどのボデ一ガの写真を載せていて巻末の年表には「アントニ・ガウディによる作品と憶測されるが彼の指揮によって実現されたものではないもの」という個所があり、そのリスト中には「フランシスコ・ベレンゲ一ルの大多数の作品における徴候と達成」とわざわざ念まで押してある。それ以降ボデーガはベレンゲールの作とされ,われわれは今までこの一書に頼ってきたわけなのである。
確かにラフォルスのサグラダ・ファミリア教会での文書保管という経歴はその信頼を置くにふさわしいものであるし,事実信頼もおけよう。しかしながら同時に彼はボデーガの建設を目縕したわけでもない。これも事実である。ボデーガの建設年代は1888年から90年頃と考えられるのに対し,ラフオルスは1889年生まれ,またべレンゲールは彼の25才の時に他界し,ラフォルスはその2年後つまり、1916年まで学生であり,ラフォルスとベレンゲ一ルの個人的関係すら危ぶまれる。また場所といい時代といい建築許可申請をしたことも,図面すら始めから存在していなかつたという可能性も考えられるので,恐らくはラフオルスは師ガウディからの口述によってベレンゲールとボデーガを結びつけていたのであろう。ガウディはベレンゲールのそのことに対し否定できないような理由もあったのである。