ガウディの謎 Part 6

7ーガラーフとグエイ伯とガウディ
ガラーフとグエイ伯爵、そしてガウディとの関係は,パラウ・グエイの建設開始つまり1885年あたりから明確になる。グエイ館の石切り場はガラーフである。ところがもうひとつ1882年の日付のガウディのサインのあるプロジェクトがある。グエイ家のための狩猟小屋がそれで,場所が他ならぬガラ
ーフであり,この実施案がボデーガとも考えられるのである。プロジェクトはカサ・ビセンスやグエイ・パヴィリォンと傾向を同じくし,イスラム建築から直接受けたインスピレーションをもとにしている。外壁を囲むギャラリーがあり,幾何学的な細部のモチーフ,いくつかのそして大きなシンボリックな塔(こちらのほうは学生時代傾倒していたゴシック様式の名残とも考えられる)。またこの図面からすると建築材料は楝瓦と石を組み合わせたもので,この時代のガウディの好んだ材料である。その後の聖テレサ学院にもこの方法は使われている。そして偶然かどうか,ボデーガ・デ・ガラーフの門と管理人小屋が同一材料,同一構造である。


8 "g”の謎
もう少しボデーガ・デ・ガラーフをみてみることにしよう。まず平面からみると,一階の海側の住居部に田字型のプランがある。注目したいのはこの交叉部であり,サロンから三つの隣室へ向かう扉が方形のしかも45度の角を与えられたスペースから開けている。これは明らかに通りの概念から始まっている南欧の住居の通路のあり方とは相反する発想法からきている。つまり例えばイスラム建築のように空間の実用的コアとしてのパティォのような発想である。寝室,台所,玄関に囲まれたパティオは夏の居間という役割のほか,通路の役をする。それも細長い通路ではなく,多方向性を持った通路で,そこにはプラサと同一な意味合いがある。またこの手法は空間の利用度をきわめて高いものにできる。これもガウディが常に用いた手段であり,ボデ一ガより建設年代の早いカサ・ビセンスを始めとしてパラウ・グエイ,サンタ・テレサカサ・ミラなど,ほとんどすべての作品にみられる。一方ベレンゲールの1904年のグエイ公園の家にも1909年のオロ通りのアパ一トにもそれは見出せないのである。
二つのセクションそれも異質なものを結ぶ場合,ガウディはダイレクトな連結ではなくクッションをつけた。これがボデーガの礼拝堂の両室,そして2階の両セクションを結ぶ場合にも使われている。ここにもイスラム空間の手法がみられる。構造的にはボデーガはパラボラ・アーチが至るところに使われていて,特に礼拝堂の内部の七つの連続したパラボラ・アーチは先にはグエイ・パヴィリオンの馬小屋,後にはさらに発展した形となってカサ・ミラの最上階のそれへと受け継がれていく。ほぼボデーガと年代を同じくするグエイ館では正面ファサードと中央サロンのキューボラにこのアーチがみられるが,ボデーガでは効果的にも大胆さからみても数段優れている。
そして何よりもガウディならではの構造と空間構成,芸術性,材料の効果的な使い方といったものが,言うならば根源的な,ほとんど有機物的な発生のような出会いから出発したデザインがボデーガ・デ・ガラーフにはある。
またガウディの反シンメトリックなコンボジションがあり,ガウディ特意の煙突があり,宗教的モチーフがある。そして妻の部分に刻まれた“g” は何を意味するのだろうか。
ガラーフ、グエイ、 いやガウディ…。


ガウディの謎

知られざるガウディの作品

A+U 1976年3月号より