御受難のファサード Part 3

この点を,現在の教会の主任建築家ルイス・ボネット・イ・ガリ(Lluís Bonet i Galí)氏はこう語ってくれた。「図面や模型のすべてをなくしてしまったのは,全く残念である。しかし模型をどうやって再現するのか,我々はそのすべを知らない。図面は実は新しいものである」。それでは芸術的遺産として未完のまま,教会を保存しておけばよいのではないかという考えもおこるわけである。1963年バルセロナ建築学校に端を発し,カタロニアの知識人から,世界的に名を知られた建築家,芸術家を,この建設続行反対運動に卷き込んでいったのがそれである。その署名の中にはボイガス(Bohigas), コデルク(Coderch),ボフィール(Bofill),アルバ(Alba),それにタビエス(Tàpies), ミロ(Miró),シリシ(Cirici),セルト(Sert),ポンティ(Ponti),ゼビ(Zevi),ぺヴスナー(Pevsner),ル・コルビュジェ(Le Corbusier)という名が見出される。その公開論争の教会建設委員会側の弁論は「現在のプランはすべてガウディの手になるオリジナルを基に正確に再現されている」「作品の完成はガウディの望むところであった」「議会は御受難のファサード建設認可には慎重にあたり,これを可决した」とあり,ピロ12世とバウロ 6世の建設統行に寄せた賛意でその弁論をしめくくっている。ところがガウディのオリジナルとはいったい何なのかということがまずある。彼は時代の先駆者であったので,考古学的作品など眼中になかつた。それは御降誕のファサードを下から上へみれば一目瞭然であろう。ガウディはその計画案とともに生きていたのである。こういう話が残っている。その頃スペインでは建築許可認定を下せる機関がマドリッドにしかなかったので,ガウディも出来上がった図面をマドリッドへ送らなければならなかった。ところがその審査は2力月かかった。そうしてせっかく認可を受けた図面なのに,ガウディは建設しようとはしなかった。彼にとっては2力月という期間がすでに図面をただの紙片れに変えてしまっていたのである。またガウディの処女作であるヴイセンス邸(Casa Vicens, 1883-85年)では一室の壁を17回塗り直させたといわれている。
彼の設計の方法は二次元の図面からではなく,三次元の模型,あるいは,すでに建設の途上にあるものから完成に近づけてゆくというものであった。さらに悪いことには,スペイン戦争まであった模型ですら,ガウディの死の8年前に造られたものである。かつての『ガウディ友の会』の書記官E.カサネーリェス(Enric Casanelles)は「ガウディは,その精神において生きている。そのことが一番基本的なことなのである……。しかし誰が彼の精神を知っているだろうか……。教会の完成は若い建築家に委ねるべきである」という。さらに辛辣に建築家コデルクは言う。「聖家族教会で現在働いている建築家はみな現役ではない」。ともかく今年3月22日に御受難のファサード第10万番目の石が積み上げられた。今後の計画では今年度中に石工事を終了。 76年夏に尖塔を完成させるといわれている。鐘塔部分まで石造(完成されていない傾斜柱のポーチは鉄筋コンクリート造)。
尖塔は鉄筋の入ったコンクリートで,表面は特殊なモルタルに表面加工を施したもので,これはガウディの使わなかった新しい手法である。尖塔はパートに分けられ,地上でモザイクの張り付けまでされ,タワー・クレーンで引き上げ組み立てられる。中央2基は112メートル。外側のもので102 メートル。
聖家族教会に対するもめごとはなにも1965年だけではなかった。近くには1971年、遡れば1811年,1853年にも論争があつた。だが何よりも教会を守り続け,一つの人間の夢を完成させようと奮戦している建築家たち、ボネット(Lluís Bonet i Galí, 1893〜1993年)プーチ・イ・ボアダ(Isidre Puig i Boada, 1891〜1987年),力ルドネ 一ル(Francesc de Paula Cardoner i Blanch, 1929〜1997年)、今はなきクインターナ(Francesc Quintana, 1892〜1966年)に敬意を表したいものである。


左がプーチ、右がボネット 1974年にもらったポートレート

A+U 1975年1月号
バルセロナに関するノート⑨
より