ガウディとフォンセレ



ジョゼップ・フォンセレ・イ・メストレ(Josep Fomtserè i Mestres;1829〜1897年)の名は.われわれにガウディの名と共に記憶されている。フォンセレはいわゆる建築家ではなく,Maestro de Obraであつた。このマエストロ ・デ・オプラとは、より実際的な仕事からの経験と修練を積んで得られる資格で、建築家の成立以前に逮設に携わっているもののうち、指導的な役割を果たした入びとのことである。手元にある1903年建築士会年鑑を見るとと、バルセロナ在住のマエストロ・デ・オブラは70,建築家94を数えるが,フォンセレの時代にはその比重は逆転していたものと考えられる。またこの年鑑にはフォンセレの名は消えているもののガウディはAntoni Gaudí i Cornet Diptación, 339 3º2ªとして出てくる。
フォンセレは1853年,マドリッドのサン・フェルナンド,アカデミ一でマエストロの資格を得た。そのフォンセレがより近代的思考と近代的教育を受けた建築家たちをさしおいて,1871年バルセロナ市主催のシウタデージャ公園のコンペに勝利を得たのは興味深いことである。おそらくはこういういきさつを知って.建築学校の学生ガウディはすぐさまフォンセレのもとへ走ったのであろう。
公園はバルセ口ナ港に瞵接する60Haに計画され,現在でも同名の名で残っている。フォンセレの計画によれば,平面紋章型でその周囲に植樹した大路を巡らし,紋章型の内部は二分され,一方を滝としてそれに池を続かせ,周囲の大路の刈り込まれた木々とは対照的に巨大な木々を茂らせ,他方を大きく開放的なプラザとして,美術産業館を配置している。公園設立目的はカタロニアの政治的自由、解放と結びつけられているため,フォンセレの名声はこれで一躍上ったわけであるのだが記憶に残る限りの彼のその以前の仕事はセルダ案の一部としてセルダから託された,バルセロナ周辺都市ブラン(1855年)の作成ぐらいなものである。
公園の建設は1871年に始まり,翌27年にガウディは事務所入りしている。フォンセレの事務所でのガウディの仕事は.その公園の貯水場の溝造計算であつた。ガウディはそれを見事にやってのけたのであるが,フォンセレの方は結果にたいして期待していなかった。出来が悪いというより,フォンセレにしてみればこの大切な仕事を2年生になったばかりの一学生にすべてをまかせるわけにはいかな
かったのであろう。そこで友人であり,大学の材料耐久学の教授である.ファン・トーラスに計算の再検討を依頼したのであった。ところが逆にトーラスの方がこの天才的計算法に興味を示し,計算者の名を尋ねたという。こうして教授は彼を出席簿からではなく,学外から見出したのである。というのもこの年彼はトーラスの講義に出ていなければならなかったのであるが欠席が続いていた。このことでガウディはフォンセレの信頼を勝ち得たばかりか、トーラスの認定試験にもその特別な配盧を得ることができたのであった。
この貯水場は園内の淹および.池のためのものであるが、現在は図書館として使われている。他のこの公園内でガウディが設計したと考えられているものは.門の鉄細工、オーナメントのいくつか、そして大滝である。門の方は市役所の保管室に現存する図面の手法.あるいは後年の街灯計画のデザインとの比較から、それと知られるが,大滝の方は1972年の大掃除の折.偶然見つかったガウディのイタズラ書きから彼と大滝の関係がより明確となった。
もっとも大淹の設計に関係したことは弟子たちに語りつがれたこともある。またこの大滝のヒン卜となったと思われる一枚の写离が彼の遺品から見つかつている。それはマルティネイによれば(同者著書、1967年刊 P.217)マルセーユのEau城のものであるというが,おそらく彼の勘違いで,Longchamp(H.J. Esperendieu 設計 1862〜69年)の事であろう。滝は6年後の1881年ガウディがすでに建築家となり,ビセンス邸の建設中に完成する。フォンセレはさらに6年後の1887年まで公園逮設を続けるが1888年の公園内への万博の招喚に逮築家エリアス・ロージェント, (Eliès Rogent, 1821〜1897年)に公園建設官の地位をあけ渡すのである。
大滝はガウディの習作という以外の意味で興味はないが、完成をみなかった美術産業館は(1872年設計),そしてその実施案とでもいうべきボルン市場(Mercat del Born, 1874〜76年)は市の最初の鉄の構造物として注目される。それはエッフェルによるボン・マルシェ百貨店とほぼ時を同じくしているが、ボルン市場の方は上方からの光は瓦で遮られ,側面はガラスではなく,ブラインドで陰らされている。また屋根も切妻で30メートルほどのスパンには切り上がりが付けられ,換気と採光にも気が配られている。この平面はラテン十宇で,交差部には八角形のドームが付き,さらにその上には小ドームが付け足されている。また同期のバルセロナには,他に三つの代表的な鉄の構造物がある。一つはクリスタル・パレスからの影響が明らかな温室)Josep Amargós, 1884 〜1887年)であり,他は日徐室(フォンセレの基本設計1883年をもとにアマルゴスが1888に建設)とでもいうまさに日差しの強い西欧ならではの大架構が鉄によってつくられた。日徐室の断面はフォンセレの設計を踏襲し,ボルン市場の壁面よりも大胆に日除のブラインドが使われ,特異な空間を形成している。これはアントニオーニの新作映画ブロフェッション「レポーター」のワン・ショットとしてガウディのそれと同様登場してくる。残る一つはサン・アントニ市場(Sant Antoni, Antoni Rovila I Trios, 1816〜1889年,1876〜1882年)であるが,ギリシア十字のブランに壁部にはかなりガラスが使われている。
これらの初期の鉄による構造物は当代特有の新技術に対するある種のオプティミズムが今は色あせているかのように立ちすくみ,ボルンの市場にいたっては解体を待つばかりというのはいかにも悲しい。

A+U
1976年2月号より