フランセスク・ベレンゲール

ベレンゲールはガウディと同郷のレウスの出身で、そのうえ父親はガウディの恩師であった。そして1881年、15歳になって丁度ガウディと同じような経緯でバルセロナへ出て、美術・建築を志すのであった。ところがベレンゲールもまた劣等性であったことがその成績表から分かる。美術学校では“風景・版画の描写”の単位を取ってはいるが、建築学校では“製図”を通常試験で終えているが“人物画”を4年後までも落第している。(予備課程1881〜82年)。成績がよかったのは“石膏の建築装飾とフラグメントの模写”(1887年)で“特優”をとっているが、“地形学と測量の初歩”は落第(1887年)、“陰、透視法、日時計測量学”などは2度も落第(1887、1888年)しているのであった。しかもベレンゲールは技術的な科目の講義を受ける前、1888年の初めに学校を去ってしまうのである。これが建築家になれなかった理由であるが、この直接の原因は1887年の結婚であった。このころガウディの住む家からほんの10軒ばかりのところに居を構えていたベレンゲールであったが、サグラダ・ファミリアに近いグラシア市に移転している。グラシア市(Vila de Gràcia)は今ではバルセロナの一地区となっているが、1897年までは隣接の村であったところで、現在も村役場広場など村の姿が残っているところである。ベレンゲールが引っ越しをした理由はグラシア市がサグラダ・ファミリアに近くて通うのに便利であり、午前中はグラシア市の市建築官と仕事をすることによって生計を立てるためであった。ベレンゲールは子沢山で7人の子供があったから、ガウディとの仕事をしたいが、経済的に家庭を顧みる必要があったのだ。