ガウディの作であると証言するサルバドール

さて、このベレンゲールによって設計されたといわれてきたボデーガ・デ・ガラーフには、それを否定するような証人がいくらかいるのでそれを見てみよう。
マドリッドの建築家で国会議員でもあったアモス・サルバドール(Amós Salvador Saénz y Carreras, 1879〜1959年)は当時自由党カステジョン選挙区から選ばれた国会議員であった1916年にバルセロナで国内建築家会議が開かれて、マドリッド中央建築家協会の会長、議会代表という肩書でこの地を訪れ、ガウディからのサグラダ・ファミリアの視察の招待を受けるのであった。しかし、このとき、サルバドールを驚かせたのはガウディがカタラン語ではなくカスティージャ語で教会や付属学校の説明をしたことであった。既にこのころガウディはほとんどカタラン語しか話さなかったといわれるから、これはかなりの厚遇ということになる。サルバドールの選挙区カステジョンは行政的にはバレンシアを首都とするレバンテに属するが、バレンシア語はカタランと似ているのだが、サルバドールの出身はカスティージャ語圏のログローニョで生まれ、マドリッドで教育を受けマドリッドで活動の基盤を持っていた人だからカタラン語は分からない。
サルバドールはこの時の回想をガウディの没年にマドリッドの建築家協会の公刊雑誌である“アルキテクトゥーラ”に「ガウディの回想」と題して発表したが、そこにはこう書かれているのである。
「我々の非常に熱心な会見はガラーフの訪問のすすめとともに終わった。その時はそれを実現することができなかったが、後に実現することができた。・・・・・ガラーフでの作品は私を刺激させた。ガウディのすべての作品がそうであるように。・・・・」そのうえこの論文には13枚の写真が添えられているが、このうち7枚までもがボデーガのものなのである。