Part 7 工事中止命令

カサ・ミラでは地階ができると,そこに10分の1の石膏模型が据えられた。もっともその模型も建設の進行と共につくられ,手が加えられてゆくのであつたが,それから図面を起こすのではなく,石工にそれを見せ直接10倍にさせた。しかも切石は目地面だけが削られ,いったん積み上げられた後,ガイドとなる鉄筋がそのうえに貼り付けられ,水平線が検討されたうえで始めてノミが入れられたのである。この方法で建設が進められていったのは何もファサ一ドだけではない。例えば天井のこれまでカタルーニャで憤例とされていた仕上げの方法は,編んだ葦をスラブに張り,そのうえをスタッコで仕上げるものだが,ガウディは天井に波を打たせるためにスチール・メッシュを葦のかわりに使い,それをまず早乾性セメントでもって下塗りしておいて,大まかな形を整え,さらに作業中にも修正が加えられるように遅乾性セメントで中塗り,これをブラスターで最後に仕上げるという具合である。
ここにもはっきりとした設計作業と現場作業の一体化がみられるが,これこそガウディの空間の確かさをつくりあげることになった手法なのである。彼は机上の理論化でもなく,机上のデザイナーでもなく,経験主義の職人でもなかった。しかし彼はその全てを兼ね備えていたのである。
ところがこの方法は官僚システムからすればまったくそぐわないものである。建設中の1908年1月28日には役所からパセッジ・デ・グラシアの側の歩道に1メートルも突き出した柱に対して抗議が出た。2月17日には,ブロベンサ通りのファサードの突出部が2 メートル,巾46メートル,パセッジ・デ・グラシア街のファサードでは,3 メートル,巾23メートルにわたって申請図面より余計につくられていたため違法建築として摘発されている。また建設がかなり進んでいた1909年の9月28日にも軒高制限を越えていることで訴えられ,10月21日に市長から建設中止命令が出されている。これにも無感心だったガウディに対して、ついに11月6日,24時間という制限付きの中止命令が厳しく言い渡された。階数は図面と同じなのだが階高が4.4メ—トル越え,そのうえ6メートルほどの6つの塔が建ち4000立方メートルばかりも市街地条例からはみ出ているのである。市の建築局の役人建築家も市条例を越える部分を直ちに取り壊わすべきという意見を述べた,結果的には建物の芸術性が認められ,再認可になった。

敷地境界線を超えてしまい歩道にはみ出している柱 ガウディに言わせれば、はみでてしまったということだろうか。

続く

A+U

1979年5月号より