1.セルダとその時代


セルダの拡張部分、エイシャンプレの1992年の様子

イルデフォンソ・セルダ・イ・スネェール(Idedefonso Cerdà i Suñer)は1815年12月23日バルセロナの地方都市ビック近郊に生まれた。その祖先は少なくとも15世紀からこの土地に居を構えていたといわれる。といってもセルダ家はだだ田園生活を送っていたわけではなく、バルセロナアメリカと取引のある商社を通じての投資事業をすでに2代前から始めていた。こんなこともあり、セルダ家はバルセロナや外国との連絡も密であり、セルダ家のイルデフォンソの兄である次男ラモンにしろ、薬学を勉強しにバルセロナへ出て、次いでリオン、パリ、ロンドンへ留学ということもできたわけである。長男のホセは家督を継いで、農業と資本投資を続け、次いで工業にも手を出したり、鉱業へも手を広げた。そういった兄たちの中に育ったイルデフォンソは初等教育を兄等と同様にビックのセミナリーで終え、ついで、兄ラモンを頼りにバルセロナへ出て(1832年)建築と数学を学び、後1836年マドリッドの道路工学校へと進むのである。ところがこの学校は、学校とは名ばかりで、校長を除いて3人の教授がいただけ、まだスペインに鉄道が敷設される前の話である。というよりスティーブンソンの試運転から20年を経た頃の話である。1841年にはその学校を出、道路・運河・港湾技術者の称号を得るのであるが、その間次兄には死なれ、父を亡くし、それから7年後の1848年には長兄をも亡くし、この古いセルダ家の後継者となり、莫大な財産と家名を相続するわけである。また、その頃(1849年)彼自身は道路技術者団というものを創り運営していたという。これはペリーの来日以前の話である。ところがこの道路技術者団は建設省の下部機関でもなければ何でもなく、自称・他言の非公認団体であったという。これから彼の死までほとんどの研究と活動は彼自身の財産から出たという。しかもその晩年には家財を全て使い果たし、娘のわずかばかりの稼ぎを当てに、国や役所への支払い請求に当てる日々だったという。ちなみに、今日まで残っているセルダの生家とその緑多き小高いセンテージャスの丘だけでも時価数億円以上というから、投資資本など合わせたらかなりの資産を持っていたはずである。


セルダの生まれた家
1976年3月撮影

A+U 1976年11月より

続く