2.19世紀のバルセロナ市

バルセロナ産業革命は他のスペインの都市よりいち早く18世紀の末に起こった。それと同時に1844年頃、セルダが都市問題に興味を持った時期、バルセロナはイギリスやフランスのどんな工業都市よりも重大な危機に直面していたという。衛生問題がその最たるもので、1836年から1847年は新生児より死亡者の方が多かったという。にもかかわらず、産業勃興は労働者の需要、それもアンバランスな社会的均衡を破っての必然的帰結として起こり、同期5万4千人余りの流動人口がバルセロナ市を悪化させた。1836年のバルセロナの人口が13万1千人で、その激増ぶりは想像がつく ,それが1851年までゴシック期にできた市壁内に住まなければならなかったのである。当時衛生問題は最悪の状態にあったわけで,1837年から47年の統計によるバルセロナ人の平均寿命は次の通りあった。

中産階級 職人 日給労働者
男子 38.83歳 25.44歳 19.68歳
女子 34.11歳 24.90歳 27.43歳

また、ヨーロッパ全域を襲ったコレラの住民千人に対する死亡率をみれば
リール(1832年) 10人
モスクワ(1831年) 15人
パリ(1832年) 24人
バルセロナ1834年) 29人

となっている。
やたらに統計ばかりになるが、労働者の賃金のうち54パーセントが食費に当てられ、食費のうち52パーセントがパンを買うために使われたという。当時、賃金が労働者の過剰な流入によって低下した反面、小麦粉の騰貴が続いたのである。同じくセルダの統計によれば1856年頃のバルセロナの平均労働者家庭、つまり夫婦に二人の子供の食事内容はとみれば、朝食―子供;パンくずと一杯の水、夫婦;パン一切れと塩付けのイワシ、昼食―豆400グラム、夕食―ジャガイモ1400グラムというものであった。こういったことが1848年の労働者決起、1855年ゼネストへとバルセロナを追いやったことであろう。とうぜん、これは住環境へともつながっているのだが、石造の本建築上に仮設住宅が建てられ、さらにそれもが多層化され、連結されたという。市壁の上にもそれは延長されつながっていたという。とうぜん、他地方からの移住者、工業集中人口は賃貸しのこれらの住宅にすまねがならず、それが平方メートル当りの価格ではなく、立方メートル当りの勘定だったという。このいわば蜂の巣状の住宅は、太陽が届くどころか、空を仰ぎ見ることすら不可能であり、さらに隣近所には工場の騒音と排気があった。
人口密度はセルダの統計によれば一室につき3.64人が生活していた(1859年)。以下は当時のヨーロッパの主要都市の人口密度である。
ロンドン(1858年) 86人/ヘクタール
マドリッド(1857年) 348
パリ(1859年) 356
リール(1858年) 411
マドリッド(1857年。公園を除く) 534
ビルバオ1860年) 546
ビルバオ旧市街 826
バルセロナ(1859年) 859

ちょうどセルダの没年ドイツ人Reinhard Baumeisterの出版した”Stadt-Erweierungen in technisher, baupolizeilicher und wirthschaftlicher Beziehung” (1876年、ベルリン)によると(ただし、ヨーロッパ中部だけについてのみの統計)
ケルンの市壁内 400人/ヘクタール
パルマ・デ・マジョルカ(1885年) 416
アムステルダム(運河も含む) 500
ハンブルグ(1874年の旧市街) 555
ビルバオ(1869年) 585
ロンドン・全市 100
ロンドン・シティ 454
ベルリン(1873年全市) 151
ベルリン・旧市街 286
ベルリン・スパンダウ地区 588
プラハ(1874年市壁内) 286
プラハ旧市街 476
プラハユダヤ人街 1428
パリ全域 111
パリ繁華街 322
パリ繁華街中心部 714

以上でみるとプラハユダヤ人街区が1428人/ヘクタールという高密度を示しているが、バウマイスターの統計以前にセルダがやった1859年の統計によれば、バルセロナのある地区は1724人を数えていたのである。この数字はヨーロッパで示された最高値ではなく、1876年のバウマイスターのリヴァプールによる統計が222人、ところが1884年の王室の公式調査で明らかにされたところによれば、同市の労働者地区が2989人/ヘクタールというから、極めて高い数値を出している。また近年に至っては1934年GATCPACがCIAMの第4回会議で発表した数字によると、バルセロナの第5地区というのが1025人で同会議出席31カ国中では最高値であったという。また、同GATCPACの明らかにしたところによると、バルセロナ旧市街の年間死亡率は15%に達していたという。

1976年3月撮影

A+U 1976年11月より

続く