グラネール邸計画

もうひとつは画家グラネ−ル(Luis Graner, 1863〜1929年)の別荘計画である。画家グラネールは旺盛な活動家で、画家として成功した後にバルセロナで由緒ある劇場として知られた"プリンシパル劇場"の経営に乗り出す。ガウディとの接触はこのプリンシパル劇場にある。グラネールはこの劇場を"サラ・メルセ" と名付けたのであるが、これをガウディが内装している。その後劇場は映画館として改装されてしまっているばかりか、何ら記録が残っていないのでこの劇場がどういうものであったかという詳細は残念にも分からない。
しかし本題であるグラネールの別荘計画に戻れば、それは1904年に計画され"サラ・メルセ"の経営不振に伴って実現されず、そのうえラフォイスの記録した二枚のクロッキーを残すだけで計画についてはよく分かっていないが、我々が今まで知るところによれば、ベジエスグアルド邸のすぐ前がその敷地で、基礎と門まで建設されたが、それ以上工事は続行されなかった。"きちがい門"と呼ばれたその門には三つの開口部があり、一番大きなのが車の出入り、少し小さいのが人間、そして丸く小さな穴のようなのが烏の通用門であるという。ガウディはこの一番小さな開口部を"烏の門"と呼んでいた。門は波打ったミラージェス邸のそれのようで、土地の石を使ったのはベジエスグアルド邸のようで、粗雑なテクスチャーと色彩を持っているが、住居の方はグエル公園の門番小屋と関連した形態である。そのうえ、外壁には多彩色セラミックも張られる予定であったといわれ、立面のスケッチからは、グエル公園の門番小屋に極めて類似している。開口部の曲線,軒線の下がり具合、釜のような架構、ひとつの十字架を項いた塔等々。しかしそのブランには曲線の登用があるとはいえビセンス邸のそれと極めて類似しているのである。


コミージャスに残されているグラネール邸門
この門は何らかの理由でカサ・デ・モーロの門としてフリアン・バルディエール・パルド(Julián Bardier Pardo)によって1900年に建設されている。