モデルニスモ Modernisme

最近本屋で昭和の風物や出来事を扱った本が目立つようになったが、モデルニスモの評価が一般に定着したのはここバルセロナでもほんの最近のことだった。
1992年、第25回夏季オリンピックバルセロナで開かれるのに平行して文化オリンピックと称して一連の企画があり、その中でQuadrat d’Or(黄金の四角)という展覧会が一銀行の運営するあのガウディのカサ・ミラ(ラ・ペドレラ)にある展示場で催された。街中にある150のモデルニスモ期の建物が紹介されたのだった。このクアドラットというのはグリッド状に引かれたバルセロナの街路から出来た四角いブロックのことであり、市民が日常的に見慣れているがためにこそ却って関心を引かない文化財産を豊富な文献で市民の目の前にさらすこととなった。
もっともガウディの建物ですら60年代にはインテリアの改装でオリジナル部分がコンテナーに捨てられていたこともあったわけだから一般市民のモデルニスモに対する認識というのはその程度なのかもしれない。
とにかくこの展覧会がモデルニスモの位置を市民の間で確固たる位置に定着することになった歴史的な出来事となった。これと同じ文化オリンピックの企画のなかで同じコミッショナーが企画した市の近代美術館挙げての“El Modernismo”展よりも身近さが手伝ってインパクトのあるものとなった。
この展覧会と前後して市役所はPosat Guapa(きれいに並びましょう)というキャンペーンを盛んにやっていた。これはファサードなどの建物の外回りの化粧直しをすると市役所は援助金などを出すという街の美化運動だが、たまたまモデルニスモの時期に出来た建物が100年ほどの時間が経っているため大々的な補修を要求されるような時期と重なり、この運動の対象のほとんどがモデルニスモの時代の建物となり、しかも、このQuadrat d’Orと展覧会の企画者が命名した地区、アイシャンプレに集中していたのだ。これで街のひとつの歴史財産であり、アイデンティーとなるモデルニスモファサードに磨きがかけられ、現在この街の代表的な商業地区となったアイシャンプレの活気に拍車がかけられることになった。
学問的にはモデルニスモが位置づけられたのは、無論これらの展覧会より遡らなければならない。最初にモデルニスモについてまとめて書かれた本というのはガウディの最初の伝記作家である建築家ラフォイスのもので、1943年に出版された『バルセロナモデルニスモ芸術』である。次いで、美術評論家のアレハンドロ・シリシは『カタルーニャモデルニスモ』と題して1951年、図版の入った大著をあらわしている。建築ではかなり遅れて1968年初刊されたボイーガスの『モデルニスモ建築』が決定的な著作となり、カルロス・フローレスが全二巻の『ガウディ、ジュジョールそしてカタルーニャモデルニスモ』を1982年に出してガウディそしてモデルニスモの建築的評価が確立したといえるだろう。
モデルニスモは当然、モダニスムの意味であり、ラフォイスはじめモデルニスモの一般書では文学、演劇、絵画、音楽、彫刻、建築、ステンド:グラス、セラミック、パーケット、壁紙、モザイク、家具といったインテリア、装飾芸術、イラスト、ポスター、ジェウェリー、テキスタイル、メダル、装丁など多岐の領域に渡って展開されたスタイルの普及を扱ってカタルーニャの華麗に展開されたモデルニスモのエポックを解析している。
文学ではマラガイ、ベルダゲー、ザンネー、カタラ、音楽ではタレガ、アルベニス、グラナードス、絵画ではカサス、ルシニョール、ブリュイ、ノネイ、若きピカソ、アングラーダ=カマラサ、彫刻ではブライ、リモーナ、アルナウ、家具のガスパー・オマール、ジョアン・ブスケッツ、装飾芸術のランベルト・エスカレール、ジョセップ・ペイ、あるいはリケーなど多彩な顔ぶれが並ぶ。
ガウディが活躍した時代のカタルーニャのこの華々しさは、ゴールドラッシュといわれるまでの経済的な繁栄の裏づけに中央政府からの独立が叫ばれるなか様々な分野で、色々なかたちで文化的な新しいアイデンティーを見つける努力が繰り広げられた時代だった。と同時にいわゆる世紀末にヨーロッパ各地で起きた芸術運動と時代性ではあるところで絡み合わせていることも確かだ。
ここで同時代の建築家とガウディを比較するということを試みると、リュイス・ドメネック・イ・モンタネールはラショナリスト、ジョセップ・プーチ・イ・カダファルクは歴史主義でガウディはというと神秘主義と言えるだろう。これは時代の代表的な三人の比較だけではなく、更に次の世代の代表的な三人を比較してみても、ジュセップ・マリア・ジュジョールはシュール+ダダイズム、リュイス・モンクニル・イ・パレジャーダは擬似ガウディニズム、サルバドー・バレリはバロックというようにマルチな局面を持っていることが分かる。Quadrat d’Orに残るモデルニスモ建築の量の多さもさることながら、この多様性にも注目すべきである。
モデルニスモの近年の解釈というのは、あまりに多様で一の様式としてのグラマーがない、ということだ。これはバブルの常なのかもしれない、成金趣味の常なのかもしれない。しかし、その他の芸術運動と異なる点はカタルーニャにしか起こらなかった時代的な現象であったということを再確認しておかねばならない。つまりヨーロッパのいわゆるアールヌーヴォーを代表とする世紀末芸術の退廃さはモデルニスモにはひとかけらもないことだ。いやそれどころか楽観的で、希望的でポジティブな社会はゴールドラッシュといわれた経済展望、カタルーニャ主義を主張しての中央政府への独立宣言、果てはアナーキストの発生などの政治的な時代状況の反映を確実に反映し、新市街をつくった大事件だったのだ。
こういった事情を背景に、モデルニスモ1880年の中頃から経済恐慌のその後の1920年代の後半まで繰り返し、繰り返し使われ、果ては当初のブルジュアだけという特権さえも失ってしまい、民族主義の名を着せられバルセロナを離れカタルーニャの地方都市の民家にまで様々なかたちで「スタイル」として使われたのだった。
もう一つモデルニスモには時代性があるのは間違いが無いのだが、厳密にクロノロジカルな点から再度検証してみると、世紀末芸術とは一線を画す意外な事実がある。つまり、アールヌーヴォー最初の作品はオルタのデザインによるブリュッセルのタッセル邸であるというのが定説になっているが、このタッセル邸の建設年代は1892から1893年で、一方ではモデルニスモの最初の作品として定説化されているガウディのカサ・ビセンスは1883年設計開始、1888年完成でモデルニスモの方が年代的に10年も早いのである。これは見逃せないことである。
ブリュッセルでのアールヌーヴォーはおおよそ1890年前後の一連の雑誌のアジテーションでこの芸術運動が展開された。1882年創刊の『現代芸術L' Art Moderne』、91年の『レヴェイユLe Réveil』、1893年の『ファン・ヌ・エン・ストラクスVan Nu en Straks』、1894年『プール・ラールPour l´Art』などの出版は1892年に『アーツ・クラフト展覧会協会Arts and Craft Exhibitin Society』が輸入されたのをはじめ、フランスのアヴァンギャルドとの交流も誘発した。タッセル邸でアーツ・クラフトの壁紙が使われたことを見てもこの事情が分かる。
これに対してバルセロナの状況は1878年にあのドメネク・イ・モンタネールによって”国民建築を目指して”という論考がラ・レナシェンサLa Renaxença "誌に発表され、翌年にはカタロニア語での日刊紙『ディアリ・カタラDiari Català』、さらにその翌年にはカタルーニャ語アカデミーが設立、あるいはヴィジュアル版月刊誌『ラ・イルストラシオ・カタラーナLa´Ilustració Catalana』もカタルーニャ語で刊行され、82年にはサグラダ・ファミリア教会の定礎式や未完だったバルセロナのカテドラルのファサードのデザインコンペの開催という、もっぱらカタロニアの国造りに奔走している時代だったのだ。

ラ・レマシェンサ

ディアリ・カタラ表紙

ラ・イルストラシオ・カタラーナの1911年10月22日号
以上Wikipediaより

カタルーニャの建築家たちにとってさらに幸いしたのは、1856年に中世の残骸で、要塞都市の名残であるバルセロナの市壁が完全に撤去され、次いで1859年にエンジニア、セルダにより市域の拡張計画がつくられたことである。こうして生まれた広大な拡張の地アイシャンプレは建築家たちが活動する格好の場となっていった。『黄金のブロック』にはこうしたタイミングがあったのだ。
この街、カタロニアの首都は中央政府へ静かなる反抗を繰り返し、過去の栄光を取り戻そうとモデルニスモ運動を繰り広げ、万博を二度開催し、92年オリンピックで街を大改造した。そして、今新たにバルセロナは最先端の建築デザインを街のそこここに建設し、さらなるカタロニア・パワーを誇示しようとしている。

丹下敏明

X-Konwledge HOME 2003年10月号/15 septiembre 2003
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