カンピンス司教の依頼

1901年夏、当時のマジョルカ島パルマの司教ペラ・カンピンスPere Campins i Barceló(1859〜1915年)はローマを訪ねるに当たり、バルセロナへ出たときそこで建設中の贖罪教会とその建築家を訪問し、すっかりその高名な建築家を気に入ってしまい、特に彼の説く典礼式研究に強い興味を引かれて、自分のパルマのカテドラルに典礼の改革をしようという考えを持つのであった。
司教はローマの帰途オルヴィエト、フィレンツェボローニャ、モンペジェーなどの都市を訪れ、つぶさにそれらのカテドラルの典礼式を見て、いよいよのこと決意を固めるのであった。そしてマジョルカへの帰途再びバルセロナを訪れた司教は、ガウディにそのカテドラルの修復を依頼するのであった。ガウディはこれを快く引き受け、同月つまり1902年3月26日、マジョルカ島パルマを訪れている。
その3日後ガウディは予備計画をつくりあげ、司教をはじめとするマジョルカの有力者を前に計画案を説明し、同年8月13日には木製の模型を議会に提出している。ガウディの修復計画は次のようなものであった。最大礼拝堂にあるバロック風の祭壇、およびその背後のゴシックの残物を取り除くこと、司教席を表出させること、三位一体の礼拝堂を取り外すこと、絵画、ステンド・グラスなどにより装飾を付け加えることなどであった。